説教「満足の秘訣」

フィリピの信徒への手紙4:11-14

 欠乏しているからではない
 ローマで皇帝による裁判を待ちながら監禁された生活をしているパウロは、フィリピの教会からの贈り物を感謝して受け取りました。その贈り物とは、おそらくパウロの生活を支えるお金であったのでしょう。パウロの感謝の気持ちは、10節の「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう」という言葉に表されています。これに続く言葉としては、一般の常識であれば贈ってもらったお金によって自分がいかに助けられたかということを詳しく説明するのではないでしょうか。ところが、パウロはそのような私たちの常識とは反対に、自分が贈り物に依存していないということを記すのであります。  すなわち、パウロは「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(11節)と述べます。「物欲しさにこう言っているのではありません」というのは、たいへんおもしろい言い方です。ただし、「物欲しさに」と訳されているギリシア語は、本来「欠乏しているから」「欠乏しているという基準で」という意味の言葉です。他の日本語の聖書では「乏しいから」(口語訳・新改訳)と訳され、英語の聖書では“because I am in need”(NIV)などと訳されています。「物欲しさに」と訳すと確かに生き生きとした感じがするのですが、本来の意味はもっと単純な「欠乏しているから」ということです。つまり、ここでパウロは、「自分はお金や物がなくて困っているから贈り物を喜んでいるのではない」ということをはっきり言っているのです。この言葉は私たちをとまどわせます。贈り物を喜んでもらっておきながら、困っているから喜んだのではないなどというのは、この世の常識からすれば失礼ともやせ我慢とも受け取られかねないことだからです。

 自分の置かれた境遇に満足する
 そこで、パウロは、自分が困っているのではないということの理由をたいへん興味深い言葉で説明しています。すなわち、11節後半に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と記しています。日本語の聖書には十分に表れておりませんが、明らかに11節後半は11節前半の意味を説明しています。ギリシア語原典では、11節後半の初めの部分に「なぜなら」という意味の接続詞のガルという言葉が入っているからです。ですから、11節後半は「なぜなら、わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたからです」と訳す方がよいでしょう。  「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」というのも、たいへんおもしろい言い方です。「満足すること」と訳されているアウタルケースというギリシア語は、「自分」という意味のアウトスという言葉と「十分である」という意味のアルケオーいう言葉が結びついたもので、文字どおりに訳せば「自給自足している」とか「自分で満足している」という意味です。さらに、このアウタルケースという言葉は、古代の哲学として広く受け入れられていたストア派の考えを表すときに用いられるものでした。ストア派の哲学に基づく生き方とは、「宇宙秩序に対する透徹した観照から、情念や思惑にかき乱されない不動心(アパテイア)を養い、厳しい克己心と義務感を身につけてこの世を正しく理性的に生きること」(大沼忠弘)でした。そうすると、パウロの思想もストア派の哲学者たちと似たようなものなのだろうか、という疑問が生じます。12節の「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」という所を読むと、パウロもストア派のように自己訓練によって「いついかなる場合にも対処する秘訣」を身につけて、ストイックな生き方ができるようになったということなのだろうか、と思わされます。
 キリストと結ばれているゆえに
 しかし、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)という言葉によって、パウロの生き方は単に自己訓練の賜物ではなかったということが分かります。「わたしを強めてくださる方」とは、言うまでもなく主イエス・キリストのことであります。キリストと結ばれ、キリストと一体とされておりますゆえに、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚え」「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知って」おり、「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かって」いるのであります。キリストと一体とされ、キリストの十字架と復活にあずかっているゆえに、「すべてが可能」なのです。注意したいのは、「すべてが可能」とは、自分の思いのままに何でもできるという意味ではなく、キリストに従うことが何でもできるという意味だということです。  これまでのところでも、パウロはフィリピの信徒たちにキリストと一体とされた者として生きるようにと勧めていました。「主によってしっかりと立ちなさい。」(1節)「主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)「主において常に喜びなさい。」(4節)そのように勧めることができたのは、パウロ自身がキリストと一体の者として生きていたからでした。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3:10-11)という言葉は、キリストと一体となって生きているパウロの生き方をたいへんよく言い表しています。  このように、パウロが「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」のは、単なる自己訓練の結果ではありませんでした。もちろん、パウロは厳しく自己訓練をした人でありましたが、「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えた」のは、「わたしを強めてくださる方」であるイエス・キリストとの交わりの結果でした。そして、パウロに贈り物を贈ったフィリピの信徒たちもまた、イエス・キリストとの交わりによって生かされていた人たちでした。ですから、パウロは贈り物を贈ってくれたフィリピの信徒たちに、こびることなく率直に「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」と記すことができたのです。このことは。私たちにクリスチャン同士の交わりのあり方について深く考えさせてくれます。すなわち、クリスチャン同士は本来、互いに依存し合ったり、支配したり支配されたりする関係ではないということです。キリストとの交わりによって、キリストの恵みによって生かされている者として、独立した存在として互いに交わりをもつということです。「自分の置かれた境遇に満足する」ことができ、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かって」いる者として、共に生きるということです。苦しみを共にしつつ、しかも互いに苦しめ合うのではない関係です。一人の主イエス・キリストの苦しみに共にあずかることによって、苦しみを共にするような関係です。  この後、讃美歌第二編195番の「キリストにはかえられません」という讃美歌を歌います。この讃美歌の1節には「キリストにはかえられません 世の宝もまた富も このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです」とあります。そして、3節には「キリストにはかえられません いかにうつくしいものも このおかたでこころの 満たされているいまは」とあります。この讃美歌の内容は、本日の聖書の箇所とよく合っていると思います。満足の秘訣とは、私たちのために十字架上で死んで復活されたキリストと親しく交わり、キリストによって私たちの心が満たされていることなのであります。    (2016年4月24日の説教より)