説教「平和の神」

フィリピの信徒への手紙4:8-9

 この世の常識を心に留める
 使徒パウロはフィリピの信徒たちへの結びの勧告として、「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(8節)と勧めます。この勧めの言葉は、これより前に記されていた勧めの言葉と比べてみますと、かなり違いがあることが分かります。たとえば、少し前の6節の勧めの言葉と比べてみましょう。6節の「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」というのは、非常にキリスト教的な勧めの言葉です。神様に祈りと願いをささげるのは、神様を信じているからこそできることです。神様を信じていない人にそうしなさいと勧めても、そうしますとは言えないでしょう。ところが、8節でパウロが勧めていることは、考えようによっては神様を信じていようがいまいが、誰にでもできることですし、しなければならないことなのです。  「すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」これはギリシアやローマの哲学者が言ったとしてもおかしくないような言葉です。実際、紀元前1世紀に活躍したローマの哲学者・政治家のキケロの著作には、これとよく似た箇所があるそうです。当時の社会の常識となっていたような考え方であると言ってもよいでしょう。しかし、パウロはキケロの真似をしているのではありませんし、ギリシアやローマの哲学をそのまま受け入れているのでもありません。そうではなくて、クリスチャンもまた、キリストの教えに適合している限りにおいて、この世の常識で善いとされていることを心に留め実行しなさい、と言っているのです。また、この世の常識で善いとされていることを、クリスチャンの証しの精神をもって心に留め実行しなさい、と教えているのです。天国に属する民としてこの世とは一線を画しつつ、しかも世にあってキリストを証しする者として、この世の常識にも配慮するように、と勧めているのです。

 生きた手本であるパウロ
 しかし、当時のローマ社会の常識をどのように受け入れ、それに従っていくかということは、具体的にはなかなか難しい問題であったに違いありません。そこで、パウロは9節の前半でパウロ自身のことを生きた手本とするようにとフィリピの信徒たちに勧めています。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。」パウロは3章17節でも「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」と勧めています。この世の常識を受け入れながら、同時にこの世と対決していくというのは容易なことではありません。自分の頭の中で、こういう場合はこうしよう、ああいう場合はああしようと考えていても、それでうまくいくというものではありません。そこで、パウロは謙遜な自信をもって、パウロ自身を身近な生きた手本にするようにと勧めているのです。使徒言行録に記されたパウロの伝道を読みますと、パウロが一方でローマ帝国の秩序を重んじつつ、他方でキリストの福音のためになにものにも妥協せず進んで行ったことがよくわかります。たとえば、フィリピの伝道においてパウロはむち打たれて投獄されました。そのような迫害を甘んじて受けつつ、牢獄の中で看守に伝道し、さらに釈放されるときには毅然として市の高官に対して法に基づいた謝罪を要求しました。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」(使徒16:37)クリスチャンとしての柔和さをもって迫害を受け止めつつ、正々堂々と正義が行われることを要求するパウロの姿は、フィリピの信徒たちにとって生きたお手本であったに違いありません。

 「平和の神」が共におられる
 最後に、パウロは興味深い一言を付け加えています。9節後半の「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」という一言です。パウロは「平和の神」という言い方を手紙の中でしばしば用いています。たとえば、異言の問題で混乱していたコリント教会に対して、秩序正しく礼拝を守るように教えて「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(一コリント14:33)と説明しています。また、ローマの教会に対しては、教会内の不和やつまずきをもたらす人々に警戒するように命じた後、「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」(ローマ16:20)と励ましを与えています。さらに、テサロニケの教会に対しては「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように」(二テサロニケ3:16)という祈りの言葉を送っています。これらの言葉は、手紙の結びの部分やパウロが何らかの勧めをした後で記されています。ということは、クリスチャンとしての生活をしていくときに、「平和の神」が共にいてくださるということが最終的な支えになるということを表しています。そこで、本日の箇所もこれらの箇所と同じような趣旨で理解すべきでありましょう。すなわち、「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」というのは、フィリピの信徒たちの信仰生活を「平和の神」が共にいて支えてくださるという励ましの言葉なのであります。  信徒の方から、クリスチャンとして具体的にどのような生活をしていったらよいかわからないという悩みをお聞きすることがあります。悩むのは、その人が誠実にクリスチャンとして生きようとしているからだとも言えます。しかし、悩んで思いわずらうようになってしまうと、それは正しくないでしょう。6節のところでは「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧められています。そして、7節には「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と約束されています。「神の平和」がクリスチャンを思い煩いから守ってくれるのであります。つまり、私たちが心の思いを打ち明けて神に祈るときに、神は聖霊によって平和を与え、私たちが毎日の生活の中でどのように考え、どのように語り、どのように行動すればよいかを示してくださるというのです。つまり、祈って歩むクリスチャンと共にいてくださる聖霊なる神様こそ、クリスチャンの信仰生活を支えてくださる「平和の神」なのであります。私たちはこの世でクリスチャンとしてどのように生きていけばよいかというさまざまな課題に直面します。そのときに、聖霊なる神様が共にいてくださることに信頼して、神に祈り、常識にも配慮し、そして、パウロがしたように忍耐しつつ毅然と行動する者でありたいと願います。
 (2016年4月10日の説教より)