説教「香ばしい香りの献げ物」

フィリピの信徒への手紙4:18-20

 祭壇から立ち昇る香り
 旧約聖書の時代には、毎日朝に夕に聖所の祭壇でいけにえの羊が「焼き尽くす献げ物」として燃やされ、その香ばしい香りが天に昇ることによって、神への献げ物とされたのでありました。「無傷の一歳の羊二匹を、日ごとの焼き尽くす献げ物として、毎朝、朝夕に一匹ずつ、ささげなさい。それと共に、上等の小麦粉十分の一エファに上質のオリーブを砕いて取った油四分の一ヒンを混ぜて作った穀物の献げ物をささげる。これが日ごとの焼き尽くす献げ物であって、燃やして主にささげる宥めの香りとして、シナイ山で定められたものである。」(民数28:3-6)イスラエルの民が、一日も欠かさずに朝に夕に羊をいけにえとして燃やしてささげていたということに驚かされます。さらに驚くべきことは、「祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続ける」(レビ6:6)と定められていて、聖所の祭壇の火が24時間燃やし続けられていたということです。朝にささげられたいけにえは、一日中夕方までその香ばしい香りを天に向かって放ち続け、夕にささげられたいけにえは、一晩中朝方までその香ばしい香りを天に向かって放ち続けたのでありました。このようにして、一時も絶えることなく祭壇からよい香りを放ち続けることによって、旧約聖書の時代のイスラエルの民は、神に対する献身を表したのでありました。  そこで、パウロは祭壇から立ち昇る香ばしい香りの比喩によって、クリスチャンの生活全体がキリストと共に神にささげられるよい香りの献げ物であると言いました。「わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」(二コリント2:15)そして、本日の箇所でも、パウロは香ばしい香りの比喩によって、フィリピの教会に対する感謝を表わしました。すなわち、「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と記しました。フィリピ教会が、キリストを証しするパウロの生活を支えるためにした贈り物は、単に人に対する贈り物ではなく、旧約時代の「焼き尽くす献げ物」のように、神様に対する献げ物であったと言っているのです。フィリピ教会で信徒たちが献金を集めるときには、おそらく、祈りをもって神様に献げる気持ちで集めたことでしょう。動機がそのような思いであったというだけではなく、キリストにあって共に福音にあずかっているパウロを支える贈り物は、客観的に言っても神様への献げ物でありました。そして、キリストを証しするパウロを献金で支えるということは、フィリピ教会の信徒たちの献身の表れでありました。この献金は、フィリピの信徒たちの生活が神様に献げられたものであることを表していたのです。ですから、フィリピの信徒たち自身が「香ばしい香り」であり「神が喜んで受けてくださるいけにえ」であったと言ってもよいでしょう。

 必要を満たしてくださる神
 フィリピの信徒たちが自分自身を神様に献げたのであるならば、神様もまた豊かにそれに答えてくださるでありましょう。そのことが19節に「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と記されています。自分自身を神様に献げる信仰者に対して、神様は「御自分の栄光の富に応じて」答えてくださるというのであります。このことは、少し抽象的に聞こえるかもしれません。神様の「栄光の富」とはいったい何でしょうか。それは、年月が経てば失われていくような人間の持っている富ではなく、永遠に存続する無限の富であります。この世の栄華を極めた人間たちですら決して自分の力では手にすることのできなかった永遠の生命であります。その永遠の生命がイエス・キリストによって信仰者に差し出されています。しかも、それは来世の救いだけに限られるのではありません。「あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」という言い方は、明らかにフィリピの信徒たちの現在の差し迫った必要をも満たしてくださるという意味が込められています。もしフィリピの信徒たちが献げ物をしたために生活が苦しくなったとすれば、神様はその物質的な必要をも満たしてくださるでしょう。もしフィリピの信徒たちが周囲の人々の迫害の中で危険と不安を覚えていたとすれば、神様は平安を与えて精神的な必要をも満たしてくださるでありましょう。もしフィリピの信徒たちが教会内の人間的な対立によって苦しみを覚えていたとすれば、神様はへりくだる心を与えて人間関係の必要をも満たしてくださるでありましょう。
 神に栄光を帰する生活
 ここまで記すと、パウロはもはや細かに説明をするよりも、人間の思いをはるかに超えた豊かさをもっておられる神をほめたたえずにはおれなくなります。そして、「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)と言うのです。ある研究者は「人がキリストによって惜しみなく与えられた『神の富』について考えるならば、讃美し礼拝する以外の何があるだろうか」と書いております。まことにそのとおりだと思います。私たちは、聖書と教会を通してキリストとの交わりを与えられて、キリストの恵みを受けます。そして、キリストの恵みを受けて、感謝をもって自分の生活を神様への献げ物として献げます。すると、神様は私たちの献げ物に答えて、私たちに必要なものをお与えくださるのであります。その結果、私たちは神様に栄光を帰し、神様の栄光をたたえずにはおれなくなります。17世紀にイギリスで作られたウェストミンスター小教理問答は、その第一問で「人間の第一の目的は、何ですか」と問い、「人間の第一の目的は、神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすることです」と答えています。  クリスチャンの生活とは何かという問いに対しては、いろいろな答え方ができると思いますが、「神に栄光を帰する生活」というのも一つの大切な答えだと思います。これはわかりきったことのようにも聞こえますが、実際に実践するのはなかなか難しいことです。なぜなら、神様から恵みを受けてクリスチャンとして善い働きや善い生活をすると、自分のした善い働きや善い生活の方に目が行ってしまいがちだからです。厳しく言えば、「神に栄光を帰する生活」から「自分に栄光を帰する生活」へと変質していく恐れがあるのです。もしそのように変質してしまいますと、その人の生活はキリストの香ばしい香りよりも人間的なくさい臭いを放つようになってしまうでしょう。もし今日の聖書の箇所が「わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」ではなく、「わたしとフィリピ教会に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」で終わっていたとするならば、非常に奇異な感じを与えることでしょう。同じように、私たちの生活が人間に栄光を帰するところで終わっていたならば、それはもはや本当にキリストを証しする生活であるとは言えないでありましょう。神に栄光を帰してこそ、キリストの香りを放つ生活となるのです。伝道の難しい時代であると言われます。人と人との人格的な交わり自体が難しくなっているとも言われます。神様に自分を献げ、神様に栄光を帰すならば、私たちの生活全体がキリストの香ばしい香りを放つものとなります。その香りが、まことの救いを求める人々をキリストのもとへと導くのです。  (2016年5月22日の説教より)