説教「キリストに捕らえられて」

フィリピの信徒への手紙3:12-14

 パウロの目標とは
 使徒パウロは自分の歩みの目標をきわめてはっきりと見定めていた人でした。本日の箇所のすぐ前の10-11節で、パウロは次のように記しています。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」パウロの目標は永遠の命でした。すなわち、終わりの日の復活によって永遠の命を完全なしかたで受けることでした。皆様は、パウロのようなキリスト教の伝道者の場合にはそれは当然のことだと思われるかもしれません。しかし、これはそう簡単に当然とは言えないことです。なぜなら、ビジネスマンがビジネスで大きな仕事をすることを目標にするとすれば、伝道者は伝道で大きな仕事をすることを目標にするのが自然なことだからです。もちろん、パウロは次にどこに行って伝道しようという具体的な目標をもって歩んでいました。しかし、パウロが最終的に目指したのは、何人に洗礼を授けるかとか、いくつ教会を建てるかとか、どれだけ広い地域の人々に伝道するかというような目に見える活動ではなかったのです。パウロの目標はそれらの活動をはるかに超えたところにありました。その目標とは、パウロ自身が人々と共に福音にあずかり永遠の命を受けることでありました。。  したがって、パウロは「わたしはすでにこれだけのことを達成した」というような書き方をしません。むしろ、「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」(12節)と記すのです。パウロがこのようにフィリピ教会の信徒たちに書いたのは、フィリピ教会の中に「自分たちは既に完全になっている」と主張するような誤った考え方が侵入していたからではないか、と推測する学者もあります。そうかもしれません。しかし、パウロの最終目標が、終わりの日の「死者の中からの復活」(11節)すなわち永遠の命であったことを考えますと、「既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と言うのは、文脈からしても当然のことでありましょう。パウロは、終わりの日に栄光の体に復活するということを未だ得ておらず、「何とかして捕らえようと努めている」のであります。「何とかして捕らえようと努めている」のは、単にパウロの側の一方的な熱意に基づくものではありません。むしろ、パウロに永遠の命を与え、終わりの日の復活に導こうとするキリストの側の熱意に基づいているのです。「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」とあるように、パウロを捕らえて天国の世継ぎとし永遠の命を与えるというキリストの恵み深い意思が先にあるのです。その恵みの意思に支えられて、パウロは永遠の命を求めて進んでいるのです。

 目標を目指してひたすら走る
 13-14節では、パウロのクリスチャンとしての生き方が運動競技のたとえを用いて語られます。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」新約聖書時代のパレスチナでは、かなり多くの町がギリシア式の競技場を持っており、おそらくパウロも競技場で行われる競技の様子を見たことがあったのでしょう。ゴールを目指して懸命に走る選手たちの姿がパウロの心に焼き付けられていたのだと思います。そこで、パウロは、永遠の命を目指して進むクリスチャンの生き方をそのような運動選手と重ね合わせているのです。  その姿とは、第一に、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向け」ということです。走る人が後ろのものを振り返ってそちらに気を取られていると、それだけ遅れてしまいます。それと同じように、クリスチャンも自分が何をしてきたかに心を捕らわれてしまうと、前に進むのが遅れてしまうのです。特に、自分がクリスチャンとして立派な行いをしてきたという高ぶった思いがあると、前に進むことが遅くなるどころかどんどん後退してしまうことすら起こります。パウロは、この手紙を書いている時点ですでにキリスト教の伝道者として大きな業績がありました。しかし、後ろのものを忘れると言っているのです。第二に、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」走るということです。運動選手は競技で優勝したならば月桂樹の葉などで作った冠を授けられました。それはたいそう晴れがましい喜びの時でありました。それと同じように、クリスチャンがこの世の馳せ場を走り終えて天国に召されたならば、永遠の命という賞を授けられるのであります。それは聖書では「義の栄冠」(二テモテ4:8)とか「命の冠」(黙示2:10)などとも呼ばれています。クリスチャンはただやみくもに走るのではありません。完走した人すべてに与えられる永遠の命という賞を受けるために走るのです。第三に、「目標を目指してひたすら走る」ということです。この「目標」というのが、終わりの日の復活、永遠の命であるということはこれまで申し上げてきたとおりです。興味深いのは「ひたすら走る」と訳されているディオーコーというギリシア語です。確かに、この言葉には「走る」という意味があるのですが、軽やかに走るというのとは違うニュアンスがあります。この言葉は英語の聖書ではしばしばプレス・オンと訳されています(NASB、NIV、NRSV)。プレスというと「押す」ということで、プレス・オンというと(困難を排して)「押し進む」ということです。つまり、永遠の命を目指して進む歩みは、決して鼻歌まじりでスキップして走るような歩みではないということです。それは、向かい風の中、嵐の中、霧の中を押し進むような歩みなのです。私たちが永遠の命を目指して進もうとすると、私たちの心の中にも、私たちを取り巻く外部の状況にも、それを妨げようとする力が働くものです。不信仰な思いが湧き上がり、迫害の逆風が吹くものなのです。そのような中を押し進むのがクリスチャンの前進なのです。  この世でいかに多くの試練を乗り越えたとしても、人生の歩みには未だ先があります。この世にいる限り最終的な安住の地はありませんし、人生の完成ということもありません。山をいくつも越え、谷をいくつも渡った後で、最後に最も高い山を登り、最も深い谷を渡らねばなりません。それは、この地上の肉体の死ということです。どのようにして私たちは、死という山を登り、谷を渡ることができるのでしょうか。それは、「キリストに捕らえられて」です。すなわち、私たちに先立って死の山を越え、谷を渡って天に昇ってくださったキリストが、しっかりと命綱を私たちに結んでくださって、その困難な道を前進することができるのです。そして、天におられるキリストのおそばに行って、永遠の命を受けることができるのです。キリストに捕らえられているということは、目指す目的地にいる方と命綱で結ばれているという、真に幸いなことなのであります。    (2016年1月31日の説教より)