説教「過去をどう見るか」

フィリピの信徒への手紙3:4-6

 人間的な身分や業績
 本日の箇所の4節で、パウロは「とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです」と記しています。「肉」というのは人間的なもののことです。つまり、パウロは人間的なものにおいても、実はほかの人に負けないくらいのものがあるのだということをあえて述べているのです。ただし、文字どおり私は自分の力や行いを誇りとし頼みとするのだと主張しているのではありません。そうではなくて、誇りとし頼みとすることができるような人間的な力や行いがあっても、今はそれを誇りとも頼みとも思っておらず、むしろ「損失」と思っていると述べようとしているのです。 まず、パウロは自分の生まれながらの身分について記します。すなわち、5節の前半で「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」と記しています。いささかくどい印象すら受けるこれらの言葉によって、パウロは自分が生まれながらに神の民としての身分を与えられている者だと言っています。そして、その点において、異邦人クリスチャンに割礼を受けさせようとする律法主義者たちに少しもひけをとらないということを示しているのです。パウロは、小アジアのキリキア州のタルソというところで、生まれながらにローマの市民権をも持っている特別なユダヤ人の家に生まれました。しかし、彼はギリシアやローマの文化に影響されることなく、律法で定められているとおりに生まれてから八日目に割礼を受け、イスラエル十二部族の一つであるベニヤミン族に属する者として、幼いときから神の民の一員として育てられ教育されました。 次に、5節後半から6節で、パウロは自分のしてきたこと、業績を記しています。すなわち、「律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」とあります。いかに熱心に神の教えに従っていたかということについて、パウロは「教会の迫害者」であったくらい、熱心であったと言っています。これは、私たち現代のクリスチャンには奇妙に聞こえるかもしれません。なぜキリスト教会を迫害することが神の教えに熱心であることとみなされたかと言えば、キリストはユダヤ人の最高法院で神を冒涜する者として死刑の判決を受け、十字架で処刑された人物であったからです。そして、律法に従えば、木にかけられ殺された者は、神に呪われた者でありました(申命21:23)。ですから、神に呪われた者として処刑されたイエス・キリストを信じるキリスト教会は、ユダヤ教徒から見れば憎むべき存在でした。その論理に従えば、キリスト教会を迫害することは、神の教えに従うことであったのです。パウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢へ送るという激しい迫害者でありました(使徒8:3)。 また、パウロは「律法の義については非のうちどころのない者」であったと言っています。これは、かつてパウロの属していたファリサイ派の基準に従えばそういうことになる、という意味です。ファリサイ派は食物に関する規定や、収入の十分の一の献げ物、そして安息日の掟などを特に強調していました。パウロはこれらの掟を「非のうちどころのない」くらい、完璧に守っていたのです。しかし、これはあくまでファリサイ派の基準に従えば、ということですから、人間が律法を守ることによって義とされるという意味ではありません。パウロは「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(ローマ3:20)「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2:21)と記しています。キリストの啓示を受けて、パウロは律法を守ることによって義とされるという考え方から、キリストを信じる信仰によって義とされるという立場に、180度の転換を遂げたのでありました。

 過去を誇らない
 パウロは、これらの過去のことを誇るためではなくむしろ否定するために記しています。それは本日の箇所に続く7節のところで「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」とあるとおりです。なぜパウロが自分の身分や業績を損失とみなすようになったのでしょうか。簡単に言えば、自分の身分や業績を誇ることとキリストを誇ることことは両立しないからでありましょう。パウロは過去の自分の誇りを捨てて、キリストに従う道を歩んでいったのです。ユダヤ人のファリサイ派のいわばエリートとして人々から尊敬される生活を捨てて、キリストの弟子として十字架の苦難にあずかる道を進んで行ったのでした。そのことから考えてみますと、私たちはクリスチャンとしての歩みを進めつつも、人間的な誇りにとらわれて、他の人々との関係で古い自分を誇っていることはないだろうかと反省させられます。フィリピ教会に悪い影響を与えていた律法主義者たちが古い自分を誇りにしていたように、私たちも、キリストとは別に自分の家柄や自分の受けた教育や自分が成し遂げたことを誇って、それによって他の人々を裁くようなことをしていないだろうかと反省させられるのであります。私たちはキリストとは別に自分の過去を誇ることのないように気をつけたいものであります。 ただし、それは過去に自分がしてきたことがまったく無駄になるということではありません。たとえば、パウロがユダヤ人のファリサイ派として厳しい教育を受けてきたことは、パウロがキリストを宣べ伝える上で大いに役立ちました。なぜなら、パウロは過去に受けた教育によって旧約聖書についての正確な知識をもっていたので、イエス・キリストの救いとは何かということを旧約聖書に基づいて正確に伝えることができたのです。すなわち、旧約聖書であらかじめ預言されていたことに基づいて、自ら経験したキリストの救いの本質を驚くほどの正確さをもって理解し、その正確なキリスト教理解が手紙の形で各地の教会や伝道者に伝えられ、信仰と生活の基準となったのでした。そして、パウロの手紙は聖書の一部となり、後のすべての時代のクリスチャンにとって信仰と生活の基準となりました。そうしますと、驚くべきことに、パウロの使徒としての偉大な働きには、パウロ自身が否定しているファリサイ派として受けた教育が大いに役立っているということになるでしょう。ですから、過去にしてきたことも神様の御計画の中では決して無駄にはならないのです。それはかつての目的とは別の目的のために大いに用いられるのです。ですから、自分の過去を誇ることのないように気をつけると同時に、自分の過去をまったく無駄であったと言って悲観してしまうことのないように気をつけたいものであります。   (2016年1月10日の説教より)