説教「喜びと優しさ」

フィリピの信徒への手紙4:4-5

 「広い心」とは
 「喜びなさい」という勧めに続いてパウロは「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」(5節)と記しています。クリスチャンの心構えとして「喜び」とともに「広い心」を勧めているのです。この「広い心」と訳されているエピエイケースというギリシア語は、大変豊かなニュアンスを持っている言葉です。他の日本語の聖書では、「寛容」(口語訳)とか「寛容な心」(新改訳)と訳されています。英語の聖書では、モデレイション(KJV、節度・温和)、フォーベアランス(RSV、自制・寛容)、ジェントルネス(NIV、NRSV、親切・優しさ・穏やかさ)、グッド・センス(NJB、分別・良識)、コンシダレイション・オヴ・アザーズ(REB、他の人々のことを考えること)などという様々な翻訳がなされています。つまり、「広い心」と訳されているエピエイケースというギリシア語は、とてもひとつの言葉で置き換えることのできないほど、豊かな内容を持っているということです。ある学者は、この言葉について「神に信頼して憎しみや悪意なく、不正、不名誉、虐待を受け止めることのできる、謙虚で忍耐強い確固たる姿勢」と解説しています。
 そうすると、これは単なる人間の善良さのようなものではなく、キリスト御自身の性質であったことが分かります。パウロは他の手紙の中で「キリストの優しさと心の広さ」(二コリント10:1)という表現を用いています。この「心の広さ」と訳されている言葉が、本日の箇所の「広い心」と訳されているのとほぼ同じ言葉です。また、ペトロはキリストの御苦難について次のように記しています。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。」(一ペトロ2:23-24)このようなへりくだったあり方こそ、ここで「広い心」という言葉で表現されているものなのです。ですから、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」というのは、単にクリスチャンは誰に対しても大らかに大ように振舞いなさい、ということではありません。むしろ、クリスチャンはこの世の迫害する人々に対して、キリストと同じような忍耐、寛容、優しさをもって対応し、そのことによってキリストを証ししなさい、ということなのです。
 電灯がこうこうとついている明るい部屋の中では、一本のロウソクの灯火はそれほどその存在を発揮しません。ところが、停電になって電灯が消えてしまったときには、一本のロウソクが絶大な力を発揮します。暗闇の中の光となるからです。それと同じように、クリスチャンの存在も、すべてが順調な明るい状態ではそれほどその価値を発揮しないように見えます。ところが、暗い状態、すなわち人々が互いに憎しみ合い傷つけ合うような状態の中では、キリストに従ってののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にすべてを任せるクリスチャンのあり方が真価を発揮するのです。クリスチャンの生きている時代が悪い時代、困難な時代であるとしても、そのような時代にこそ「なたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と勧められているのです。

 主は近い
 そして、パウロは「主はすぐ近くにおられます」と付け加えます。ギリシア語の原典には「ホー・キュリオス・エンギュス」とあります。これはそのまま日本語に翻訳すると「主は近い」(口語訳)となります。私たちが読んでいる新共同訳聖書は、この「主は近い」を意訳して「主はすぐ近くにおられます」としています。すなわち、主イエス・キリストは信じる者のすぐ近くにおられます、という意味に解釈しているのです。旧約聖書の詩篇145篇18節を読みますと「すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです」(口語訳)とあります。キリストは今やこの地上を超えた天国におられますが、同時に聖霊によって私たちの内に宿ってくださいます。そして、私たちと親しい交わりをもち、私たちと一体となってくださいます。ですから、「主はすぐ近くにおられます」ということができるのです。
 ところが、それだけでなく、この「主は近い」にはもう一つの解釈のしかたがあります。それは「主の日は近い」という意味にとる解釈です。旧約聖書のゼファニヤ書には「主の日は近づいている」(ゼファニヤ1:7)、「主の大いなる日は近づいている」(ゼファニヤ1:14)と預言されています。この「主の日」とは、主なる神が世界を裁くために審判者としてこの世に臨まれる日のことです。そして、新約聖書では「主の日」の信仰が、主イエス・キリストが生きている者と死んだ者を裁くために再び来られる日として受け継がれました。テサロニケの教会に宛てた手紙の中で、パウロは「主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります」(二テサロニケ1:8)と教えています。また、「かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです」(二テサロニケ1:10)と記しています。そして、裁きの日である「主の日」は「盗人が夜やって来るように」(一テサロニケ5:2)来るから、いつその日が来てもよいように、その日に備え、その日を待ち望んで生きるようにと教えられています。ローマの信徒への手紙13章11-12節は「主の日」を待ち望むクリスチャンの生き方を次のように教えています。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」暗い時代に夜明けが近いことを信じて喜びと優しさの灯火をともし続けて生きることこそ、クリスチャンの生き方なのです。
 (2016年3月13日の説教より)