説教「再び来られるキリスト」

ルカによる福音書21:25-33

 キリストの再臨と救いの完成

 本日の箇所の28節には、この世の終わりの出来事に対して私たちがどのような心構えで備えるべきかということが教えられています。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「このようなこと」というのは、25-26節に記されている天体の異変のことを指しています。また、「身を起こして頭を上げなさい」とは、希望をもちなさいという意味の比喩的な表現です。「あなたがたの解放の時」というのは、この地上の様々な苦しみから解放され、救いの完成する日のことです。それは「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示21:4)ような永遠の救いの完成する日であります。使徒パウロによるならば、私たちの朽ちていく体がキリストの栄光ある体と同じ形に変えられる日(フィリピ3:21)であります。アウグスティヌスの言葉を借りるならば「そこにはもはやいかなる悪もなく、いかなる善も隠されず、すべての者にあってすべてとなられる神の賛美のために時間が用いられる」(『神の国』22巻30章、服部英次郎・藤本雄三訳)ような至福のときであります。すなわち、キリストを信じて、キリストに従い、そしてキリストが再び来られることを待ち望む者たちには、最後の審判の後に神の国において復活の体と永遠の命と平和が与えられるのだから、そのことに絶えず目を止めて、希望をもって困難を耐え忍びなさい、ということが教えられているのであります。

したがって、この世の終わりと思われるような出来事が起こったとしても、救いの完成を待ち望むクリスチャンにとっては、それは希望のしるしなのであります。29-30節においては、「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」という身近なたとえで、このことが説明されています。そして、31節では「それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」と教えられています。「これらのこと」とは、25-26節で教えられている天体の異変とそれに続くキリストの再臨です。私たちが生きているこの世界にも、いつか終わりの日があります。そして、その日にはキリストが最後の審判をなさるために再びこの世に来られます。キリストを信じるクリスチャンは希望をもってその日を待ち望むのです。戦争、迫害、異常気象、自然災害などが起こっても、それはこの世の終わりではありません。キリストが最後の審判をなさるときまで、この世は滅びることがないのです。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」(32節)と教えられているとおりです。さらに、この世の終わりの日が来ても、キリストを信じる者は永遠の命を受けることができるというキリストの御言葉は、必ず実現するのであります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33節)と約束されているとおりです。

 終わりの日に向けて
 
キリストの再臨と救いの完成について教えている本日の聖書の御言葉は、キリスト教の大切な教えの一つでありますが、皆様にとって今ひとつ身近なものとは思われないかもしれません。つまり、「私にとって大切なことは明日の生活のことであって、終わりの日の救いのことではない」と反論なさる方もおられるかもしれません。そこで、再びアウグスティヌスの『神の国』に基づいて考えてみたいと思います。アウグスティヌスによれば、世界の歴史というのはちょうど一週間のようなものだというのであります。そう考えると、神の国の完成する日をめざして苦しみの中を歩んでいる私たちは、ちょうど七日目の休みをめざして六日目を生きているようなものなのです。そして、七日目に休んだならば、その休みはもはや終わることのない永遠の安息となるというのです。皆様は、一週間仕事をして明日は休みになるという日、たとえば土日が休みの方であれば金曜日の午後のことを想像してみてください。日曜だけが休みの方であれば、土曜日の午後のことを想像してみてください。未だ休みではありませんが、休みへの期待によって心は軽くなっています。それと同じように、私たちは苦難に満ちたこの世界の歴史の中で、また悲しみや嘆きの多い私たちの人生のただ中において、永遠の安息が近づいているという希望をもって生きることが許されているのです。アウグスティヌスはその希望を次のような言い方で表現しました。「そこにおいては、わたしたちは休み、そして見るであろう。わたしたちは見、そして愛するであろう。わたしたちは愛し、そして称賛するであろう。これこそ終わりなき終わりにおけることである。じっさい、わたしたちの終わりとは、いかなる終わりもない御国へと至ることにほかならないからである。」(『神の国』22巻30章)

教会は毎週、主の日に礼拝を守り続けています。この礼拝は救いの完成する日の安息と平和をあらかじめ告げるものであります。中世ヨーロッパの教会の塔には鐘がつるされており、それが人々に時を知らせておりました。それと同じように、教会は一週ごとに礼拝を守ることによって、終わりの日に向けて時を刻み続けています。そして、終わりの日に審判者であるキリストによって義とされる人々の受ける平和を、主の日の礼拝を通してこの世に証しし続けているのであります。 

 (2014年11月23日の説教より)