説教「不安の時代に生きる信仰」

ルカによる福音書21:5-11

 偽キリストの出現
 本日の聖書の箇所で、キリストは世の終わりのように思えるが世の終わりではない事柄を三つ挙げておられます。第一に、偽キリストの出現であります。8節の後半には「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない」と教えられています。これは、17章23節でも教えられていたことで、「わたしこそ世の終わりに現れるメシアである」というようなことを言う人を信じてはならないという警告です。新約聖書の時代においても、自らがメシアであることを主張してユダヤの人々を惑わした偽メシアがおりました。使徒言行録5章37節によりますと、テウダという男が「自分を何か偉い者のように言って立ち上がり」四百人くらいの男を率いたとか、ガリラヤのユダという男が民衆を率いて反乱を起こしたという事実が記されています。世界の歴史の中でも、自分をメシアと自称する偽りの宗教家は数多く出ています。現代におけるいわゆるカルト宗教の教祖たち、たとえば統一協会の文鮮明などはこの偽メシアであると言ってよいでしょう。そして、今後も人々の不安に乗じて自分こそ世の終わりに現れるメシアであるというようなことを自己宣伝する者が絶えず現れることでしょう。自称のメシアは偽のキリストであり、たとえ彼らが何年何月に世の終わりが来るというようなことを言ったとしても、それを信じてはなりません。

 戦争や暴動
 世の終わりのしるしと誤解してはならない第二の事柄は、戦争や暴動であります。9節には「戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである」と教えられています。また、10節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」とあります。戦争や暴動は社会に大きな不安を巻き起こしますから、人々にいよいよ世の終わりが来たと思わせます。しかし、戦争は世の終わりではありません。家庭訪問をして伝道することで知られている「エホバの証人」(ものみの塔)は、世の終わりの日のしるしが1914年以来つぎつぎと現れていると主張しているそうです。1914年と言いますと第一次世界大戦勃発の年です。確かに、第一次世界大戦以降、戦争がそれまでにない大きな規模で起こるようになり、兵士だけでなく一般市民をも巻き込む悲惨なものになりました。20世紀は二つの世界大戦と朝鮮戦争やベトナム戦争など多くの戦争があり、戦争の世紀であったと言われました。そして、21世紀こそ平和な時代になるようにと多くの人々が願っていたにもかかわらず、早くも前の世紀以上に危険な国際情勢が続いています。しかし、私たちは聖書をよく読む必要があります。9節の後半によれば、戦争や暴動は世の終わりが差し迫っているしるしではないのです。ですから、戦争を世の終わりと結びつけて人々の恐怖心をあおり、信仰をもつようにと勧めるやり方は、聖書本来のあり方からすれば邪道だと言わねばなりません。聖書は神と隣人を愛しなさいという神の掟を教えています。その掟に照らして自分を省みるならば、自分が罪人であり、いつか最後の審判で裁かれねばならない者であることが明らかです。しかし、聖書はキリストの贖罪の業を信じることにより、罪赦され永遠の命を受ける道があることをも教えています。このように、人間の罪と神による審判、そしてキリストの贖罪についての教えが聖書には記されているのでありますから、それらに基づいて伝道するのが正しいキリスト教の伝道の仕方であります。戦争を単純に世の終わりと結びつけて人々の恐怖心をあおることは聖書の教えに反しており、戦争を布教のために利用していると言っても過言ではないでしょう。

 自然界の異常
 世の終わりのしるしとして誤解してはならない第三の事柄は、自然界の異常とそこから生じる災害であります。「そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。」(11節)地震、飢餓、疫病は、戦争に勝るとも劣らないくらい人々の生活に大きな衝撃と不安を起こします。そして、そのような時には「世の終わりだ」と言って人々の不安につけ込む宗教家が起こりやすいものです。また、「恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる」ということが何を表すかははっきりしませんが、宇宙において通常見られないような現象が起こるということでしょう。たとえば、彗星の出現は古くから戦争、疫病、飢餓などが起こるしるしとみなされてきました。たとえば、1910年にハリー彗星が出現したときに多くの人々の心が動揺しました。ある学者の研究によると、このとき大阪で「彗星よけのこわめし」というものを売り出してもうけた人がいるそうです。こわめしを食べればどうして災いを避けることができるのか、確かな根拠は何もありません。しかし、それがよく売れたというのは、人々が得体の知れない不安に捕えられると何にでも飛びつきやすい、ということを表しています。自然の異常や災害を利用して、人々の不安をあおり人々を自分の教えに引き込もうとする者には十分注意しなければなりません。

 終わりの日に備える
 このように、キリストは世の中の不安な情勢を安易に世の終わりと結びつけて解釈することのないように警告を発しておられます。そこから、私たちはさらに二つのことを考えさせられます。第一に、私たちは現代という時代についてあまりに悲観的になってはならない、ということです。現代の世相を見るならば、カルト宗教、戦争、地震、気候変動など、人々を不安にするものが多くあります。しかし、キリストの教えによるならば、これらのものは世の終わりを意味する事柄ではありません。確かに、私たちは不安定な世界の中に生きています。しかし、その不安定さは今に始まったことではありません。驚くべきことは、この不安定な世界が破滅することなく今日まで続いているということです。その背後にはこの世界を支えておられる神の御手があります。ペトロの手紙二3章8-9節には「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」と教えられています。神は忍耐をもって罪に満ちた不安定な世界を支えていてくださいます。それは、人々がキリストを信じて悔い改め、神と和解して生きるようになるためなのです。  ただし、第二に、私たちはあまりに楽観的になってはなりません。人はどんなに不安定な世界の中にあっても、自分だけは大丈夫だという奇妙な自信をもつことがあります。しかし、私たち一人一人の存在もこの世界の存在も永遠ではありません。聖書が教えるように、私たち一人一人はいつか最後の審判を受けねばならないのです。ですから、その審判の時はいつ来るのかわからないという緊張感をもって生きるべきであります。私たちはこの地上でどのような生き方をしたかということについて、神の前で申し開きをしなければなりません。聖書にはキリストが生きている者と死んだ者とを裁くために再び来られるということが教えられています(二テモテ4:1)。キリストが再び来られる日は、それを待ち望んで備えつつ生きる人にとっては救いの日なのです。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:27-28)     
(2014年11月2日の説教より)