コリントの信徒への手紙二7:8-10

確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。                (二コリント7:8-9)

「あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています」とパウロが書いているのは、「あの手紙」をコリント教会に届けたテトスが、信徒たちの反応をパウロに報告したからです。本日の箇所の前の7節の後半に「あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれた」とあるとおりです。「彼」というのは、「あの手紙」をコリント教会に届けたテトスのことです。そして、「たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます」という言い回しは、パウロが信徒たちに悔い改めを求める「厳しい手紙」を書いたことを後悔していた時期があったことを示唆しています。もしかすると、トロアスやフィリピでテトスの到着を待つ間に、パウロは心が揺れ動いて「厳しい手紙」を書いたことを後悔したことがあったのかもしれません。しかし、テトスから信徒たちの反応を聞いて、「今は喜んでいます」と言うことができるようになりました。

そして、パウロはその理由を「あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです」と述べています。パウロの「厳しい手紙」のメッセージを聞いた信徒たちには、二通りの反応がありえたでしょう。一つは、自分たちのプライドを傷つけられて怒り「こんな手紙を書いてくるパウロとはもう交わりをもたない」という拒否の反応です。そして、もう一つは、自分たちのプライドが打ち砕かれることは神様の御心であると受け止め、神様のもとに立ち帰ってへりくだるという悔い改めの反応です。幸いなことに、コリント教会の信徒たちの反応は拒否ではなく悔い改めでした。「悔い改め」と言うと、後悔したり反省したりすることだと思う方もおられるかもしれません。しかし、聖書の教える「悔い改め」は、自分の心の内側で後悔したり反省したりすることではありません。神様に背を向けていた人が神様の方を向き、神様のもとに立ち帰ることを言うのです(カルヴァン『キリスト教綱要』3篇3章5・6)。コリント教会の信徒たちは、パウロの手紙によって自分たちが悲しい思いをしたことを、うらむのではなくむしろ神様の御心と受け止め、神様のもとに立ち帰って神様の喜ばれることをしようという反応をしたのでした。言うまでもなく、それはよい反応でした。そこで、パウロは8節の後半で「あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました」と書いているのです。たとえ、一時的には心が傷ついて悲しんだとしても、悲しみから悔い改めへと導かれたので「何の害も受けずに」済んだということです。                (1月30日の説教より)