コリントの信徒への手紙二7:5-7

テトスが来てくれたことによってだけではなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、そうしてくださったのです。つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。                (二コリント7:7)

コリント教会の信徒たちに悔い改めを求めるパウロの「涙の手紙」を、テトスはコリント教会の信徒たちの前で読んだことでしょう。それを聴いた信徒たちの反応は、どうだったでしょうか?「こんなことを書いてきて、ひどい奴だ」と言って、パウロに対してさらに反抗しようとしたでしょうか?そうではありませんでした。パウロの意図を受け止めるのに少し時間はかかったかもしれませんが、コリント教会の信徒たちは、パウロを「慕い」パウロのために「嘆き悲しみ」パウロに対して「熱心である」という反応を示したのでした。パウロを「慕い」というのは、パウロに会いたい、パウロと和解したいということでしょう。パウロのために「嘆き悲しみ」というのは、自分たちが「みだらな者」の側についてパウロを苦しめてしまったのを後悔して嘆き悲しんでいるということでしょう。パウロに対して「熱心である」というのは、パウロが「涙の手紙」で命じているように悔い改めて「みだらな者」を罰するということに「熱心である」ということでしょう。そのような意外とも思える信徒たちの反応は、パウロと信徒たちの緊張した関係の中にあるテトスにとって大きな慰めでした。そして、それらの反応をテトスから聴いたパウロも、慰めを受けて「いっそう喜んだ」のでした。そして、その慰めと喜びは、6節にありますように「気落ちした者を力づけてくださる方」すなわち神様から来たものであったのです。

少し距離を置いてパウロを見てみますと、「そんなに喜んでいていいんですかね?」と言うことができるかもしれません。コリント教会には依然として偶像礼拝をする信徒たちがいました。また、パウロとは違うユダヤ教的な教えをする伝道者たちが入り込んできていました。コリント教会の信徒たちの気持ちも再び変わるかもしれません。そして、キリスト教会に対する迫害の危険は続いています。しかし、パウロはそれらのさまざまな問題の中でも確かに神様が働きておられるというしるしを、コリント教会の信徒たちの悔い改めによって見ることができたのでした。苦しみの中で確かに神様は働いておられるということをはっきりと捉え、それによって希望を得て、再び困難に立ち向かっていくことができたのです。これこそ、パウロのクリスチャン・キャラクターです。苦しみの中で神様からの慰めを受け、その慰めをほかの人々と分かち合うことができるというのが、まことのクリスチャン・キャラクターです(二コリント1:4参照)。

(1月23日の説教より)