「あなたたち律法の専門家は不幸だ。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきたからだ。」    (ルカ11:52

律法学者は本来、神様とその救いの知識を人々に伝えるべき務めにありまがら、それを人々に伝えていませんでした。すなわち、キリストを信じてキリストに従うことこそ救いの道であるということを人々に伝えず、自分たちが解釈した律法を守ることによって救われるという誤った考え方を教えておりました。これは、律法主義の最も大きな害悪でありましょう。律法を実行することによって神の前で義とされるかのように教えることは、キリスト教の根幹を揺るがす誤りであります。そこで、使徒パウロもガラテヤの信徒への手紙において力強く律法主義の誤りを論証しました。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです。」(ガラテヤ3:10-11)

律法主義に凝り固まった人は、たとえて申しますと中身のないゆで卵のようなものです。(普通はそんなものを作る人はいませんが。)中身のないゆで卵は食べることができません。すなわち、律法主義者は他の人々を霊的に養うことができないのです。それだけでなく、中身のないゆで卵はすぐに壊れます。中身がないからです。同じように、律法主義者の生活は一見しっかりしているように見えますが、困難に出会うと意外ともろいのであります。なぜなら、生活が内側から形作られていなくて、外側の形だけがあるからです。ですから、私は皆様の生活が、まず魂の内側から形作られていくように、と祈り願っております。        (12月8日の説教より)