全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。    (一コリント13:3)

 現在の新共同訳聖書の前に私たちの教会で用いられていた口語訳という翻訳では、この箇所が「自分の体を焼かれるために渡しても」となっていました。古い聖書を読んだ記憶のある方は、「そう言えばそうなっていたな」と思い出されたのではないでしょうか。この箇所は、新約聖書のギリシア語の原典自体が二通りに分かれていて、そのいずれを採用するかによって翻訳も変わってくる箇所なのです。ご存知のように新約聖書は手書きで書き写されて広まっていきました。書き写される過程で書き間違いや修正がなされて、どちらがより古い元の記述であるのかがわかりにくい場合もあります。この箇所もその一つです。一方で、P46という古いパピルスの写本やシナイ写本、アレクサンドリア写本、バチカン写本には、ギリシア語でヒナ・カウケーソーマイと書かれていて、これは「私が誇るために」という意味です。他方、エフライム写本やベザ写本などの写本では、ヒナ・カウセーソマイと書かれていて、これは「私が焼かれるために」という意味です。どちらを採用するかについての研究者や聖書翻訳者の立場は二つに分かれているのですが、どちらかと言えば現在私たちが用いている新共同訳聖書のように「誇ろうとして」と書かれている写本を採用する方が正しいと思われます。その理由は、そちらの方が年代的により古い写本であることや、写本を書き写す人が「誇ろうとして」自分の身を引き渡すというのはおかしいと考えて「焼かれるために」と修正したのだろうと推定されることです。
 つまり、この箇所は人が自分を犠牲にするような行為を「愛がなくても」自分を「誇ろうとして」することがある、ということを示しています。カルト宗教の信者の人たちが出家をしたり、戦争やテロにおいて忠誠心や義務感から死を選んでいく人たちがいることを考えますと、確かにそれはありうることだと思います。  (6月23日の説教より)