あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。        (一コリント12:31)
 
 この勧めの言葉は、これまでパウロが述べてきたこととは矛盾しているようにも聞こえます。パウロは教会がさまざまな賜物をもった人によって成り立っていることを述べてきました。「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うと、聖霊の賜物には大きなものと小さなものがあるように聞こえます。英語の聖書の中にはこの箇所を“the higher gifts”(ESV)すなわち、「より高い賜物」と翻訳しているものもあります。「より高い賜物」と言うと、聖霊の賜物に高いものと低いものがあるのか、と反発したいような気持ちにもなります。これはいったいどういうことでしょうか。
 この問題を解決するためにしばしば言われますのは、「もっと大きな賜物」というのは実は「愛」のことであるという解釈です。そのように解釈する人は、次の13章でパウロは「もっと大きな賜物」として「愛」の大切さを強調しているのだ、と言うのです。しかし、この解釈は正確ではありません。なぜなら、パウロはこの手紙の中でどこにも「愛」を聖霊の賜物としては挙げていないからです。もちろん、「愛」は聖霊の働きによって私たちの心に与えられます。聖霊なる神様がキリストの十字架によって示された父なる神様の愛を私たちに伝達してくださることによって、私たちの心にも神様を愛し隣人を愛する思いが湧き上がってくるのです。しかし、パウロがこの手紙の12章から14章で教えているのは、キリストの体である教会をかたち造るための具体的な聖霊の賜物についてです。「愛」とはそれらの賜物と同じ次元のものではありません。「愛」とは、さまざまな聖霊の賜物がよく機能するためのより基本的な土台なのです。
 それでは、「愛」に基づいて語る人は、他の人にわからない言葉を語るでしょうか。それともわかる言葉を語るでしょうか。もちろん、わかる言葉を語るでしょう。この手紙の14章でパウロは、他の人々にわからない「異言」よりも聞いてわかる「預言」を語るように勧めています。そうすることによって、それを聞いた一人一人がクリスチャンとして成長し、信仰の共同体である教会が造り上げられるからです。ですから、「もっと大きな賜物」とは、意味のわからない「異言」ではなく、聞いてわかる「預言」を語ることなのです。 (6月16日の説教より)