市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。  (一コリント10:25-26)

ギリシア神話の神々の偶像を礼拝する神殿で動物のいけにえがささげられたときに、そのいけにえの肉は三つの部分に分けられたのだそうです。すなわち、第一に焼いて神々にささげる部分、第二に礼拝に参加した人に分配されて持ち帰ることのできる部分、第三に礼拝の場で参加した人たちが食べる部分です。これらの三つの部分のうち、第二の部分つまり礼拝に参加した人たちに分配される部分は、市場で売られることもありました。そこで、コリントの市場では、いったん偶像にささげられた後に分配された肉が市場で売られていたのです。
この偶像に献げられた後で市場で売られている肉をどう考えるかは、微妙な問題でした。パウロは、第三の部分、すなわち偶像の神殿で偶像礼拝の儀式に参加し神殿でいけにえの肉を食べることについては、それが弱い人を偶像礼拝に誘うことになるので、8章12節で「キリストに対して罪を犯すこと」だと言って厳しく禁じていました。しかし、市場で売られている肉については、柔軟な対応をしていました。たとえそれがいったん偶像にささげられたものであったとしても、市場で売られている肉を買うことは偶像礼拝の儀式に参加することではなかったからです。市場に出された以上、もはやそれはただの肉であり、神様が食物として人間に与えてくださったものでした。そこで、パウロは10章25節にあるように、「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と勧めています。ユダヤ教の律法に支配されているユダヤ人にとっては、偶像に献げられた後で市場で売られている肉は汚れていて食べることができないものでした。しかし、コリントに住む大部分の人々、つまりユダヤ人から見れば異邦人と呼ばれる人々はそれを食べて生活していました。パウロは、偶像に献げられた後で市場で売られている肉を食べたとしても、それは偶像礼拝をしたことにはならないと判断し、コリント教会の信徒たちにも異邦人と同じようにそれを食べるように勧めたのです。そして、その理由として、旧約聖書の詩編24編1節を引用して「『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです」と説明しています。           (2月24日の説教より)