わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
               (一コリント11:1)

「キリストに倣う」ということで、パウロはいったい何を考えているのでしょうか。それは、十字架につけられたキリストに倣うということでしょう。この手紙の2章2節で、パウロは「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と記しています。実際、パウロは福音を宣べ伝えたことに対する報酬を受け取る自由があったにもかかわらず、コリントではそれを用いませんでした。しかも、そのためにコリント教会の信徒たちから報酬を受け取る資格のないいわば二流の伝道者とみなされ、指導をしても信徒たちに反抗されるようなありさまでした。その生き方はまさしく十字架につけられたキリストに倣う生き方でした。
他方、コリント教会の信徒たちの中には、自分たちの知識を誇って自己流の理屈を考え、ギリシア神話の神々の神殿で偶像礼拝の儀式に参加して偶像に供えた肉の食事に参加するような信徒たちがいました。そのために、教会の中の弱い人たちも同じように偶像礼拝の儀式に参加して偶像に供えた肉の食事にあずかっているようなありさまでした。十字架につけられたキリストに倣うどころか、その正反対のような歩みをしていたのです。そこで、パウロはコリント教会の信徒たちにとって身近なお手本であるパウロ自身のことを示し、「あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と勧めているのです。「このわたしに倣う者となりなさい」という言葉は、それだけ取り出せばいわゆる上から目線の高飛車な言葉のようにも聞こえるかもしれません。しかし、それは未だクリスチャンとしての歩みが身についていないコリント教会の信徒たちに対して、クリスチャンは与えられた自由をどのように用いて歩むかということを実際にこの私から学びなさいという心のこもった勧めの言葉なのです。(3月3日の説教より)