それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。(一コリント10:22)

申命記32章16節には「彼らは他の神々に心を寄せ 主にねたみを起こさせ いとうべきことを行って、主を怒らせた」とあります。主なる神様は、御自身が選んで救った神の民が他の神々に心を寄せて偶像を礼拝するならば、ねたんでお怒りになる方だということです。なぜでしょうか。それは、主なる神様と神の民の関係は夫婦のような関係であるからです。旧約聖書では、他の神々の偶像を礼拝することが「姦淫」にたとえられています。つまり、他の神々の偶像を礼拝することは、妻が夫以外の男性と関係をもつ「姦淫」と同じようなことで、主なる神様にねたみを起こさせて怒らせることなのです。そして、新約聖書でも、ヨハネの黙示録にありますように、教会はキリストの花嫁にたとえられています。ですから、コリント教会の信徒たちのように、クリスチャンでありながら偶像の神殿で偶像礼拝の儀式に参加して、偶像にささげられた肉を食べる者は、夫を裏切って「姦淫」をする妻のようなもので、キリストのねたみと怒りを引き起こすのです。

このようにお話しすると、私たちに代わって十字架についてくださったキリストがねたんだり怒ったりするはずがないじゃないか、と思われる方があることでしょう。しかし、それはキリストという方の一面しか知らない人の言うことです。十字架上で死んだキリストは復活して天に昇られました。そして、いつの日か最後の審判をなさるために再びこの世に来られます。ヨハネの黙示録6章17節は、キリストの最後の審判の日を「神と小羊の怒りの大いなる日」と呼んでいます。キリストは私たちの救いのためにご自身を犠牲としてささげられた神の子羊でありますが、同時に、終わりの日に怒りの裁きをなさる神の子羊でもあるのです。偶像礼拝とはその方を怒らせることだとわきまえましょう。人間的に言っても、優しい人を怒らせると恐ろしいということをみなさまはご存知でしょう。そういう意味では、究極的に優しい方であるキリストを怒らせるならば、究極的に恐ろしいのです。偶像礼拝とは、究極的に優しい方を究極的に怒らせることなのだとわきまえて、偶像礼拝を避けて生活したいと思います。    (2月17日の説教より)