わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
               (一コリント10:16)

「あずかる」という言葉は、教会に新しく来た方にとってはわかりにくい言葉かもしれません。聖書ではひらがなで「あずかる」とありますが、漢字にすると「与える」という字に「る」という送り仮名をつけて「与る」(あずかる)と読みます。「銀行預金」の「預」の字を使う「預かる」ではありません。広辞苑の第五版によりますと、この「与える」という字を使う「与る」の意味は、第一に「関係する。かかわる」ということ、第二に「分け前をいただく」ということ、第三に「(目上の人から)受ける」ということです。ですから、16節の「キリストの血にあずかる」「キリストの体にあずかる」という言い方の意味は、「キリストの血にかかわる」「キリストの体にかかわる」ことですし、よりわかりやすく言えば「キリストの血の恵みの分け前をいただく」「キリストの体の恵みの分け前をいただく」ということになります。つまり、罪の赦しと永遠の命というキリストの恵みの分け前をいただくということなのです。
16節には「あずかること」という言い方が二度出てきます。この「あずかること」と翻訳されている言葉は、ギリシア語の原典ではコイノーニアという言葉です。これは普通「交わり」と翻訳される言葉です。日本語で「交わり」というと人間同士の交流や交際というイメージがありますが、コイノーニアは「あずかること」と翻訳されるように、それよりも広い意味があります。英語の聖書はこの箇所を“participation in”(ESV、NIV 2011、〜に参加すること)と翻訳したり“sharing in”(NRSV、〜の分け前にあずかること)と翻訳したりしています。教会の交わりの核にあるものは何でしょうか。それは言うまでもなく、共に神を礼拝し神の言葉である説教を聴くということです。そして、神の言葉によって与えられた恵みを一人一人が確かに受けていることを確認するのが、キリストの血を表す杯とキリストの体を表すパンを共にいただく聖餐式です。聖餐式において私たちは、キリストの血にあずかり、キリストの体にあずかります。それは、キリストの血の恵みの分け前をいただき、キリストの体の恵みの分け前をいただくということです。そして、それこそが教会のコイノーニアつまり交わりの基本だということなのです。(2月10日の説教より)