福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
               (一コリント9:23)

「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というと、キリストの福音を宣べ伝えるためなら、一方ではどんな陰謀や悪巧みもしますし、他方ではどんな犠牲も払いますと言っているかのように聞こえます。しかし、ギリシア語の原典のニュアンスはすこし違っています。原典のニュアンスをよく表している最近の英語の聖書(ESV・NRSV)は、この箇所を“I do it all for the sake of the gospel”(わたしはそのすべてを福音のためにしています)と翻訳しています。つまり、何をするにしてもすべてはキリストの福音を宣べ伝えるためにするのだ、という心構えです。そして、23節後半の「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」というのは、自分もキリストの福音により恵みを受けたいし、相手の人もキリストの福音によって恵みを受けて欲しいという意味でしょう。つまり、パウロは、自分が相手と共にキリストの福音の恵みを受けるためにすべてのことをします、と言っているのです。パウロにとっては、自分が相手と共にキリストの福音の恵みを受けることこそが、「自分のやりたいこと」であり「隣人の信仰の益になること」でもあったのです。
本日の最初にお話しした「明日から好きなことをしていいよ」というような状況は、ごく一部の人にしか当てはまらないことかもしれません。しかし、毎日しなければならない仕事が与えられている場合でも、そのしなければならない仕事の中で、自分が自由に判断することのできる部分というものがあるのではないでしょうか。そして、どう判断すればよいか迷う場合もしばしばあるのではないでしょうか。話は飛躍するようですが、判断に迷った場合に、自分が相手と共にキリストの福音の恵みを受けるためにはどうすればよいか、という基準で物事を考えてみてはいかがでしょうか。確かに、職場には職場のものの考え方があり、地域には地域の、家庭には家庭のものの考え方があります。しかし、それらのものの考え方のもう一段上に、自分が相手と共にキリストの福音の恵みを受けるためにはどうすればよいか、という基準を置いてすべてのことを考えてみてはいかがでしょうか。     (12月16日の説教より)