ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。(一コリント9:20)

使徒言行録の21章21節以下の例からわかりますように、パウロはユダヤ教の儀式を頭から否定することなく、クリスチャンとしての立場を守りつつ、その儀式に協力したのでした。その根底にあるのは、ユダヤ教の根である旧約聖書の信仰の上にキリスト教は成り立っているという認識です。
パウロはローマの信徒への手紙11章17節と18節で次のように記しています。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。」「折り取られた枝」とはイエス・キリストを受け入れなかったユダヤ教徒のことであり、「接ぎ木された枝」とはユダヤ教徒以外のいわゆる異教徒から改宗してクリスチャンとなった人々のことです。そして、「根」とは旧約聖書の信仰です。私たち日本人のクリスチャンもこの「接ぎ木された枝」にあたります。「接ぎ木された枝」は「折り取られた枝」であるユダヤ教徒に対して自分を誇ってはならないというのです。
そして、パウロはその後の23節と24節で次のようにも述べています。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」そのとおりだと思います。神様は「元からこのオリーブの木に付いていた枝」であるユダヤ教の人々を再び接ぎ木して、キリストを信じるクリスチャンにすることがおできになるのです。
              (12月9日の説教より)