聖書  コリントの信徒への手紙一6:15-17

娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。          (一コリント6:16)

「二人は一体となる」という言葉は、旧約聖書の創世記からの引用で、人間の男性と女性の関係を理解する鍵となる言葉です。すなわち、創世記2章21節以下は神が男のあばら骨から女を造ったという大変不思議な話を記しており、この話は男性と女性が人間としての同じ本質を共有していることを表しています。そして、続く24節で「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と教えられているのです。そして、「二人は一体となる」というのは、男性と女性が性の交わりにより一体となるということだけではなく、一人の男性と一人の女性が人格的に結ばれて一つとなるということでもあるのです。
それは、キリストがこの言葉を、神がお定めになった結婚の秩序を表す言葉として引用しておられることからも分かります。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)もちろん、この教えは、やむを得ない事情によって離婚することを禁じたものではないと思われますが、男性と女性の結びつきがいかに厳粛で重いものであるかということを教えています。そして、一人の男性と一人の女性が性の交わりを持つということは、本来は人格において一つに結ばれたものとして生きるということであると教えているのです。
 ところが、コリント教会の信徒たちの中には、娼婦と交わっても、食欲を満たすように性欲を満たしているだけなのだからそれでよいのだ、と考える人々がいたようです。これはクリスチャンとして、大変誤った考え方でした。体と魂を切り離して、魂はキリストと結ばれているから体は何をしてもよいのだと考えたり、性欲は食欲と同じようなものだから、娼婦と交わってそれを満たしてもよいのだと考えるならば、結局はキリストから離れてしまうことになるがそれでよいのか、とパウロは問いかけているのです。
                (6月24日の説教より)