聖  書  コリントの信徒への手紙一6:3-6

わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。
それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。
兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
(一コリント6:6)

 ここでパウロの言うことを理解するためには、いくつかのことを心に留めておかねばなりません。第一に、コリントは、物質的な成功と肉体的な快楽を追求する繁栄と享楽の都でありました。そのような中でクリスチャンは全くの少数派であり、コリントの法を司る裁判官はクリスチャンでないこの世の人々であったに違いありません。裁判官はこの世においては権威を持ち重んじられていたでしょうが、教会においては悔い改めるべき一人の罪人に過ぎません。もし信者でも求道者でもなければ、たとえこの世においては権威があっても、神の御前では裁かれるべき罪人であります。ですから、パウロはあえてこの世の裁判官を「教会では疎んじられている人たち」と呼び、「あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(4節)と問うのです。
第二に、コリント教会の信徒たちには人間的な知恵を重んじて誇る傾向がありました。そこでパウロは、人間的な知恵は神の基準からすれば愚かなものに過ぎず、十字架につけられたキリストこそ真の神の知恵であると教えたのでした(1:18-31)。そしてパウロは、彼らが自分たちの知恵を誇っていながら、自分たちの間の争いを解決できないという矛盾を鋭く指摘しています。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が一人もいないのですか」(5節)というパウロの指摘に対して、彼らはただ恥じ入る他はなかったでしょう。
第三に、クリスチャンは現在の自分というものを、終わりの日に与えられる栄光の光に照らして理解する者であります。2節に「聖なる者たちが世を裁くのです」とありますように、終わりの日にクリスチャンはキリストと同じ永遠の命と栄光を受け、この世を裁く座に着きます。クリスチャンの兄弟姉妹は、信仰によってそのような将来を共に約束された者たちなのです。栄光ある将来を約束された者同士が争いあって、終わりの日に裁かれるべき信仰のないこの世の裁判官に訴えるというのは、大きな矛盾です。そこでパウロは「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で」と記して、コリント教会の信徒たちの見識のなさを責め、悔い改めを求めているのであります。
               (5月13日の説教より)