考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出されるものとなさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。 (一コリント4:9)

 ここに記されていることについては、二通りの解釈の可能性があります。第一の可能性は、パウロがローマ帝国の各地にあった円形闘技場での見せ物を考えているということです。ローマ帝国の支配者たちは、「パンと見せ物」を提供することによって民衆の不満を解消し、人々を満足させたと言われます。その場合の見せ物とは、抜き身の剣を持った剣闘士たちが、どちらかが倒れるまで闘う文字通りの真剣勝負でありました。そして、その日の闘技の終わりには、死刑囚が引き出されて死ぬまで闘わせられるということがあったようです。あるいは、死刑囚がライオンの餌食になるところや、高いところから飛び降りて死ぬところが見せ物にされることもあったようです。私たちが用いている新共同訳聖書は、このような円形闘技場の見せ物のことと理解しているようです。以前用いていた口語訳聖書は、さらにそのことがはっきり分かるように、「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人にも見せ物にされたのだ」と訳しております。

 第二の解釈の可能性は、パウロが戦いに勝って兵士や捕虜を引き連れて行進をする将軍の凱旋行進のことを考えているということです。行列の先頭には将軍がおり、それに将校たちや兵士たちが続き、その後に奴隷にされる敵の捕虜たちが歩き、とりわけ最後には死刑に定められた捕虜たちが群集から罵声を浴びせられながら見せ物にされて歩いていくという様子です。新改訳聖書が「神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです」と訳しているのは、そのような解釈に基づいているのでしょう。ただし、この凱旋の行列の最後に引き立てられて歩く死刑囚が実際に死刑にされるのは、円形闘技場であったと解釈することもできます。(1月28日の説教より)