聖  書  コリントの信徒への手紙一4:7-8

あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。
あなたがたは既に満足し、既に大金持ちになっており、わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています。いや実際、王様になっていてくれたらと思います。そうしたら、わたしたちも、あなたがたと一緒に王様になれたはずですから。

 この箇所には、「既に」という言葉が二回も使われています。しかも、ギリシア語原典では「既に」という言葉は文の始めに置かれていて、強調されています。また、「満足し」と訳されている言葉をギリシア語の辞典(BDAG)で調べますと、この箇所は「あなたがたは必要なすべての霊的食物を、既に持っていると思っている」という意味だと解釈されています。さらに、「大金持ちになっている」と訳されている言葉は「富んでいる」という意味の言葉です。ギリシア語の辞典によれば、何に富んでいるかという説明なしにこの言葉が用いられるときには、「超越的な価値に富んでいる」という意味の場合があるとのことです。つまり、霊的に富んでいるということです。このように考えてまいりますと、パウロはコリント教会の信徒たちに向かって「既にあなたがたは霊的に満たされています。既にあなたがたは霊的に富んでいます」と言っていることになります。これはなぜでしょうか。

 クリスチャンは既にキリストの救いを受けた者ですが、同時に未だ救いの完成の途上にある者です。ですから、霊的には苦しみの中で希望を持って救いの完成を待ち望んでいるというのが本来のあり方です。パウロはローマの信徒への手紙の中で「被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23-24)と記しています。ところが、コリントの信徒たちは既に霊的に満たされ、既に霊的に富んでいると言われる状況でした。これは、クリスチャンが本来持っているべき苦しみやうめきを忘れてしまっているということでしょう。つまり、彼らは、自分たちは聖霊を受けたことによって、既にこの世を超えた新しい世界に移されていると思っておりました。そして、自分たちはこの世から超越しており、霊的に満たされ富んでいると思い込んでいました。しかし、実際には人間的な知恵を誇って高ぶっていたに過ぎなかったのです。パウロは、コリント教会の信徒たちが既に霊的に完成されているかのように思い上がっていることを指摘して、彼らに強く悔い改めを求めているのでありましょう。     (1月21日の説教より)