聖書のことば ヨハネの手紙一1:1-4
初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――
この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。――
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
「現れました」という平凡な日本語に訳されているギリシア語ファネーロオーの受身形は、より正確には「啓示されました」と訳すことができます。啓示とは人間の力では知ることのできない神の奥義が、神の力によって啓き示されることです。ヨハネによる福音書1章18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と記されておりますように、神の独り子イエス・キリストによって神の奥義が啓示されたのでありました。
それでは、神の奥義である永遠の命とは何でしょうか。ヨハネは頭の中で難しい理論を組み立てて、これが永遠の命だと言っているのではありません。むしろ、ヨハネは「永遠の命」を見て、証しし、伝えると言っているのです。「見た」と言っているのですから、「永遠の命」とは弟子たちが目撃したキリストの復活の命のことです。ルカによる福音書24章39節によれば、十字架上で死んで三日目に復活したキリストは、弟子たちに現れて「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」とおっしゃいました。
このように、永遠の命とは、目で見て手で触ることができるような確かなものでありました。イエス・キリストはこのような永遠の命を啓示するために、肉体を取ってこの世に来られ、十字架上の死の後に朽ちることのない永遠の命の体をもって復活され、天国に昇っていかれたのでした。それは、朽ちる命しか持たない私たち人類が、キリストを信じて神と和解し、永遠の命を受け継ぐためにほかなりませんでした。はかない命しか持たず、また、命とははかないものだと思い込んでいる私たちが、本当の命に出会い、本当の命によって新しくされるためだったのです。このような命の源である、命のことばキリストが私たちに与えられたということが、クリスマスの出来事の意味なのであります。 (12月24日の説教より)