ですから、だれも人間を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのものです。
パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、
あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。

 「すべては、あなたがたのものです」という箇所をギリシア語原典で読みますと、二つの重要な点に気づかされます。第一に、この文には原因や理由を表すギリシア語の接続詞ガルという言葉が含まれています。ですから、英語の聖書の中には“For all things are yours,” (「というのは、すべてはあなたがたのものだからです」)と訳しているものがいくつかあります(KJV、NRSV、ESV)。第二に、「あなたがたのもの」と訳されているヒューモーンというギリシア語は、「あなたがたは」を意味するヒューメイスという代名詞の属格という形です。属格というのは、英語で言えば、“I”に対する“my”の形で、文字通りには「~の」と訳される形です。この手紙の初めの部分で、パウロはコリント教会の信徒たちが「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」などと主張して、互いに争っていたことを指摘していました(一コリント1:12)。そして、これらの「パウロに」「アポロに」「ケファに」と訳されている言葉はすべて、本日の箇所の「あなたがたのもの」と訳されている言葉と同じ属格という形なのです。
 このようにギリシア語原典を読みますと、日本語の聖書を読んだだけでは分かりにくい一つの大切な点が明らかになってきます。すなわち、コリント教会の信徒たちは、ギリシア語の表現で言えば「わたしはパウロのものです」「わたしはアポロのもの」「わたしはケファのもの」と言って争っているに等しかったのです。彼らはそのように言って、自分がついている伝道者を誇りとし、また自分を誇りとしていました。そこで、パウロは「だれも人間を誇ってはなりません」と戒めた上で、その理由として「というのは、すべてはあなたがたのものだからです」という大切な考え方を教えます。あなたがたがパウロのものだったり、アポロのものだったり、ケファのものだったりするのではなく、反対にすべてがあなたがたのもので、「パウロもアポロもケファも、、、一切はあなたがたのもの」(23節)なのですから、「わたしは誰々につく」などと言って人間を誇ったりする必要はないし、誇ってはならないと教えているのです。
(12月17日の説教より)