聖書のことば  コリントの信徒への手紙一4:1-3

こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。

 パウロはキリストから神の言葉を宣べ伝える奉仕を委託された伝道者の立場を「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」と表現します。同じ手紙の2章7節でパウロは「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵」であると記していました。この「隠されていた、神秘としての神の知恵」は「十字架につけられたキリスト」(一コリント2:2)です。「十字架につけられたキリスト」の恵みは、この世の知恵では理解することができず、この人々には隠されていますが、神により聖霊を与えられて特別に心を照らされた人々は、その恵みを理解し受け取ることができます。本日の箇所の「神の秘められた計画」も、この世の知恵によっては理解できない「十字架につけられたキリスト」により救われるという、神の恵みの計画のことでありましょう。
 「管理者」と訳されているオイコノモスというギリシア語は、興味深い言葉です。新約聖書の時代、ある程度財産のある家には財産の管理人がいて、その家の予算や決算、物品の購入や資産の運用、貸金の徴収などの職務を行っていました。大麦や小麦の輸送の管理や貸金をめぐる約束の取り決めなども、財産管理人の仕事であったことが古文書により明らかになっているそうです。本日の箇所の「管理者」も、そのような職務を行う人のことであったと考えることができます。そうすると、パウロは伝道者とは主人の財産をまかされた財産管理人のようなものだと説明していることになります。つまり、この世の知恵によっては認識されない「十字架につけられたキリスト」の恵みこそ、伝道者に委ねられた貴重な財産であります。そして、伝道者はこの貴重な財産を、主人であるキリストの意思に従い忠実に管理していくことが求められているというのであります。
              (12月31日の説教より)