聖書のことば コリントの信徒への手紙一3:12-15
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、
おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。
だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、
燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
「金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる」とは、教会を形成していくあり方を表しているたとえです。この場合、一つ一つがどのようなあり方かということを細かく寓意的に考えることはあまり意味のないことでしょう。そもそも、最初の三つ、すなわち金、銀、宝石で家を建てるなどということは実際にはあり得ないことです。金、銀、宝石は、ここでは火によって焼き尽くされないものを意味しています。そして、それらとは対照的に後の三つ、すなわち木、草、わらは、火によって焼き尽くされてしまうものを意味しています。すなわち、前の三つは純粋に「十字架につけられたキリスト」(一コリント2:2)をしっかりと信じる信仰のみによって教会を形成していくあり方を指しており、後の三つは人間の知恵や雄弁さの魅力をも用いながら教会を形成していくあり方を指しています。
火によって焼き尽くされてしまうか否かが、最初の三つと後の三つを分ける基準であるということは、それに続く13節の後半を読むとよく分かります。「かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。」「かの日」とは最後の審判の日のことです。パウロはテサロニケの信徒への手紙の中で、最後の審判について詳しく教えています(二テサロニケ1:8-10)。そこで、キリストによる最後の審判は、火という象徴をもって表現されています。それは、キリストの福音に従わない者を裁く火であります。そして本日の箇所では、キリストによらず人間的な知恵や雄弁さによって教会につながっている者を焼き尽くす火であると言えるでしょう。「おのおのの仕事」とは、コリント教会の指導者たちがなしている伝道と教会形成の仕事であります。そして、「どんなものであるかを吟味する」とは、「十字架につけられたキリスト」という永遠の真理にしっかりと結びついているかどうかを吟味するということでありましょう。 (11月26日の説教より)