聖書のことば   コリントの信徒への手紙一1:8-9

主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。 神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。 

 「真実な」と訳されているピストスというギリシア語は、「信仰や信頼に値する、ふさわしい」という意味の言葉です。日本語で「真実」と言うと、「うそいつわりでない、本当のこと」というのが普通の意味ですが、聖書で「真実」と言うときには、それとは違った意味で用いられることがあります。その意味を日本語で表現するためには、「まこと」あるいは「誠実」と言った方がよいかもしれません。「まこと」という言葉には「事実の通りであること」という意味の他に、「人に対して親切にして欺かないこと」という意味があります。また、「誠実」とは、「まじめで真心がこもっていること」という意味です。この「真実な」(ピストス)という言葉の背景には、旧約聖書の「真実な」という意味のヘブライ語ネーマンがあり、それは「確かである」ことを表すヘブライ語の動詞アーマンに基づくものです。このアーマンに由来する言葉として、私たちが祈りの後で唱えるアーメンという言葉があります。また、「真実」「まこと」という意味のエメトやエムナーという言葉もあり、「主の慈しみとまこと」(創世24:27)というような言い方で旧約聖書の中にしばしば出てまいります。

 神様はイスラエルの民をエジプトから救い、約束の地を与えて祝福してくださいました。しかし、イスラエルの民は神の戒めを守らず、神に対して不誠実でした。そこで、神様はイスラエルの民を裁いてその王国を滅ぼされました。しかし、単に裁いただけではなく、最後にはイエス・キリストを送って、救いの道を開いてくださいました。しかも、神様はイスラエルの民だけではなく、この世のすべての民族を救いの道へと招いてくださったのです。この救いの道は、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23-24)と教えられている、信仰による救いの道です。偶像礼拝と不品行の満ちたコリントの町に住む人々もまた、このイエス・キリストを信じて救われるという信仰の道に招かれ、召されて「聖なる者」(一コリント1:2)とされたのでした。(7月9日の説教より)