聖書のことば テサロニケの信徒への手紙二2:1-2

霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。            (二テサロニケ2:2)

 テサロニケ教会の「主の日は既に来てしまったかのように言う者」がいかなる者であったかについては、いくつかの説があります。
(1)テサロニケ教会に対する激しい迫害の結果、苦しみを受けた信徒たちが「主の日は既に来てしまった」と思い込んだ。
(2)コリント教会には神の国が既に完成して既に自分たちはキリストと共に世界を支配していると思い込んでいるような信徒たちがいたが(一コリント4:8)、それと同じような信徒たちがテサロニケにもいた。
(3)古代に広まっていたグノーシス派の異端により、終わりの日の復活が既に起こったと主張する人々がいた(二テモテ2:18)。
材料が十分ではありませんから、正確な分析をすることは困難ですが、一言で言えば主観的な思い込みにより、「主の日は既に来てしまったかのように言う者」がいたということでありましょう。

 そのように言う人がいたとしても「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」とパウロは勧告します。このように勧告しなければならなかったということは、おそらく実際に動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりするような人々がいたということなのでしょう。テサロニケの信徒への第一の手紙を正しく理解しますならば、クリスチャンの生活は終わりの日を待ち望みつつ、今この世で与えられた持ち場を忠実に守っていく、緊張感のある生活だということが分かります。ところが、一部の誤った人々が主張しているように、「主の日は既に来てしまった」ということになりますと、クリスチャンの生活の正しい緊張感は失われ、自分たちだけが既に終わりの日を経験しているという、わけの分からない熱狂が支配するようになってしまいます。パウロはそのような危険を見抜いていたのでありましょう。正しい信仰が変質してしまうときに、それは救いをもたらす教えではなく、破滅をもたらす教えになってしまうのです。       (2月26日の説教より)