説教「キリストによる一致」
フィリピの信徒への手紙2:1-2
一致への勧め
本日の聖書の箇所で、使徒パウロはフィリピ教会の信徒たちにクリスチャンとしての一致を勧めています。「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」(フィリピ2:1-2)この箇所の原典には英語のif(もし~ならば)にあたるエイというギリシア語が用いられています。興味深いことに、このギリシア語のエイという言葉は、ここで4回も用いられております。また、「幾らかでも」と訳されているティスというギリシア語も、同じく4回も用いられています。ですから、このことを翻訳に反映させると、「もし幾らかでもキリストによる励ましがあるならば、もし幾らかでも愛の慰めがあるならば、もし幾らかでも“霊”による交わりがあるならば、もし幾らかでも慈しみや憐れみの心があるならば」となります。
この畳み掛けるような言い方には、使徒パウロがこの手紙を記したときのフィリピ教会の信徒たちに対する熱い思いが感じられます。パウロは「もし幾らかでも~があるならば」という言い方をしていますが、これは「実際にはないけれども、もしあると仮定するならば~だ」という意味ではありません。そうではなくて、むしろ、「実際にあるのだから、あるとすれば~だ」という意味なのです。聴衆も手紙の朗読を聞いたときに、わたしたちには「キリストによる励まし」があります、父なる神の「愛の慰め」があります、「“霊”による交わり」があります、「慈しみや憐れみの心」があります、という思いでパウロの言葉を受け止めたに違いありません。フィリピ教会には、信徒たちの「利己心や虚栄心」(2:3)や「エボディアとシンティケ」(4:2)という二人の女性の間の不和などの問題がありました。しかし、色々と問題があったとしても、フィリピ教会はイエス・キリストの教会として恵みを受けている教会でありました。ですから、あなたがたは問題を克服して一致へと向かうことができるのだ、とパウロはフィリピの信徒たちを励ましているのです。
三位一体の神の働き
それでは、フィリピ教会には何があるとパウロは言っているのでしょうか。第一に「キリストによる励まし」であります。この「励まし」と訳されている言葉は、パラクレーシスというギリシア語で、「慰め」という意味もあります。キリストによる励ましや慰めということは、苦難の中でフィリピ教会の信徒たちがキリストによって励ましや慰めを受けることができるということでしょう。フィリピ教会には内部の不一致だけでなく、外部からの圧迫という苦難がありました。すなわち、28節に「反対者たち」という言葉が出てまいりますように、おそらくローマ帝国の権力者によって迫害を受けていたと考えられます。しかし、そのような苦難も「キリストのために苦しむこと」であり「恵みとして与えられている」ものでありました(29節)。ただの苦難ではなく「キリストのために苦しむこと」である以上、そこにはキリストによる励ましや慰めがありました。
フィリピ教会にある第二のものは「愛の慰め」であります。この「愛の慰め」とは、父なる神が愛してくださるという慰めのことでしょう。多くの研究者たちによって指摘されてきたことですが、ここでパウロは父・子・聖霊なる三位一体の神のことを考えているようです。すなわち、最初に子なる神キリストが、そして最後に聖霊なる神のことが記されていますので、二番目は父なる神のことに違いありません。確かに、コリントの信徒への手紙二の末尾にある祝福の中の「神の愛」という言葉にもあるように、「愛」は父なる神のものとして言い表されていますから、そのように考えるのは正しいことでしょう。そうすると、「愛の慰め」と言っても、ただ単にお互いに愛し合って慰め合っているということではなくて、むしろ、父なる神によって愛されているという慰めを受けているということでありましょう。キリストによる励ましや慰めの背後には父なる神の愛があるということです。
フィリピ教会にある第三のものは「“霊”による交わり」です。この“霊”はもちろん聖霊のことです。また、「交わり」はギリシア語の原典ではコイノーニアで、1章5節で「あずかっている」と訳されている言葉です。ですから、「“霊”による交わり」とは、聖霊に共にあずかっているということです。さらにわかりやすく言えば、聖霊を共に受けているということです。キリストの恵みは聖霊の働きによって信徒たち一人一人に伝達されます。ですから、キリストによる励ましや慰めを受けているということは、聖霊を受けているということでもあるのです。
このように、フィリピ教会には、父・子・聖霊なる三位一体の神の働きがありました。そして、この三位一体の神の働きがあるところには、1節の最後に記されているように「慈しみや憐れみの心」もあるのです。この「慈しみや憐れみの心」は、まず何よりも神がクリスチャンたちに対して、すなわちパウロやフィリピの信徒たちに対して抱いてくださるものです。そして、パウロは神の「慈しみや憐れみの心」に応えて、自らも「慈しみや憐れみの心」をもってフィリピの信徒たちに手紙を書いています。さらに、フィリピの信徒たちも「慈しみや憐れみの心」をもってパウロの手紙に応えようとしています。三位一体の神の働きが、信仰の共同体である教会の中に「慈しみや憐れみの心」を創造するのです。
キリスト教会には三位一体の神の働きと、それに基づく慈しみや憐れみの心があります。ところが、教会というものをよく理解していない人は、まず目に見える何かを教会に期待します。そして、その期待が満たされないと、この教会には愛がないとか優しさがないというような不満を平気で口にすることがあるのです。そして、たとえクリスチャンであっても教会に与えられている恵みについて十分な確信をもっていない人は、そのような批判を聞いて動揺し、すぐに目に見える交わりを増やそうとしがちです。しかし、たとえそうしたとしても、そのような心理的な満足は長続きしないことでしょう。なぜならば、人間的な思いは、より強い満足を求めてとどまるところを知らないからです。私たちの心を本当に満たし、私たちの間に本当の一致をもたらすのは、三位一体の神御自身の働き以外のものではありません。教会に本来与えられているものを感謝して受けることこそ、愛のある一致した教会への道なのです。 (2015年8月30日の説教より)