説教「死を超えるもの」

フィリピの信徒への手紙1:21-24

 生きるとはキリスト
 本日の聖書の箇所で、皇帝による裁判を待つ身であるパウロは、生と死の問題について「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(21節)と述べています。まず、「生きるとはキリストであり」というのは、パウロにとってこの地上の人生は古い自分に死んでキリストの命によって生きる人生であるということを意味しています。これは、キリスト中心の人生観ということであり、20節の「キリストが公然とあがめられるように」というパウロの願いとも一致しています。キリスト中心の人生観をよく表現しているのは、ガラテヤの信徒への手紙の中の次のような言葉です。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)パウロは、もはや自分の命によって生きているのではなく、キリストの命によって生かされているのであります。そして、キリストの命がパウロの命となっているのです。それは、パウロが信仰によってキリストと結ばれているからです。また、ローマの信徒への手紙には次のように記されています。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)キリストのために生きるパウロの人生は、もはや自分自身のものではなく、キリストのものであります。ですから、キリストのものとして生かされているということを、パウロは一言で端的に「生きるとはキリストであり」と言い表したのです。

 死ぬことは利益
 それでは、「死ぬことは利益なのです」とは、一体どのような意味なのでしょうか。少し後の23節後半で、パウロは「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と記しています。すなわち、この世の肉体が死ぬことによって、「この世を去って、キリストと共に」いることになるので、それがパウロにとっては「利益」であり「望ましい」と言うのです。これは、キリストと結ばれたクリスチャンの魂が、肉体の死によって天におられるキリストのもとに召されてキリストと共にいることができるということを意味しています。また、パウロは次のようにも記しています。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(二コリント5:6-8)「体を住みかとしている」とは、この地上で肉体をもって生きているということです。人間がこの地上で生きている限りは、キリストと完全に一致することはできません。人間はキリストに逆らう罪を持っており、完全にキリストの意思を自分の意思とすることはできないからです。そして、「体を離れて、主のもとに住む」とは、クリスチャンの魂が、地上の肉体の死の後に「主のもと」すなわち天におられるキリストのもとに召されて、そこで安らぎを得ることを意味しています。これらの聖書の箇所に基づいて、17世紀のウェストミンスター信仰告白の32章は、次のように告白しています。「人間の体は、死後、塵に帰り、朽ち果てる。しかし、不死の実在を持つ彼らの魂(それは死ぬことも眠ることもない)は、それを与えられた神に直ちに帰る。義人の魂は、そのとき完全に清くされて、最高の天に受け入れられ、そこで彼らの体の完全な贖いを待ちながら、光と栄光の内に神の御顔を見る。また、悪人の魂は、地獄に投げ込まれ、そこで大いなる日の裁きを受ける身となって、苦しみと完全な暗黒の中にとどまる。(後略)」わかりやすく言えば、クリスチャンの魂は、地上の肉体が死ねば救い主キリストのもとに召されてそこで安息を得、やがて終わりの日に永遠の命の体をもって復活させられるということです。世俗的には、死ねば誰でも天国に行くようなことを言いますが、聖書の教えからすればそれは正しくありません。キリストと結ばれた魂が、キリストのおられる天国へと迎えられるのです。だからこそ、パウロは、普通は苦しく悲しいことだと考えられている「死ぬこと」が自分にとって「利益」であると言っているのです。そして、その場合の「死ぬこと」が、ローマの皇帝による裁判の結果、死刑を宣告されて「死ぬこと」であっても、天国でキリストと共にいることになるのであるから、それは「利益」であるというのです。

 地上で生きる意味
 このように、パウロはこの地上の肉体の死を恐れるどころか、むしろそれを望んでいたとさえ言うことができます。しかし、パウロは、決して死に向かって駆り立てられて、死に急ぐというような生き方はしませんでした。なぜなら、パウロは自分が地上で生きる積極的な意味をも知っていたからです。すなわち、22節で「けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」と告白しているとおりです。「肉において生き続ければ」とは、言うまでもなくこの地上で肉体をもって生き続ければという意味です。そして、「実り多い働き」とは、キリストのための「実り多い働き」のことであり、具体的に言えばキリストの福音を宣べ伝えて人々をキリストのもとへと導き、人々に真の救いである罪の赦しと永遠の命を受け継がせることでありました。特に、パウロはこの時「実り多い働き」をフィリピの信徒たちのためになしたいと願っておりました。24節には「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」というパウロの考えが記されています。「肉にとどまる」とは、この地上でなおも肉体をもって生きることであり、パウロが生きて地上にとどまり、フィリピの信徒たちにさらに福音を伝えて福音によって信徒たちを養うことであります。パウロは、フィリピの信徒たちのために自分が果たすべき使命や役割がたくさんあることに気づいており、この地上にとどまってそれを成し遂げようとの思いを抱いていたのでした。すなわち、パウロはキリストによって共に生かされている他者のことを考えており、自分だけのために死に急ぐつもりはありませんでした。
 このようなパウロの姿勢によく表されているように、クリスチャンは天上の生にあこがれつつ、この地上での務めを堅実に果たすものなのです。宗教改革者のカルヴァンは、クリスチャンにとってこの世の人生は主によって配置された持ち場のようなものであると言っています。すなわち、カルヴァンは「この世はいわば部署のようなもので、主はわれわれをそこに配置したもうた」「われわれは主によって呼び戻されるまでは、ここを守り抜かねばならない」(『キリスト教綱要』第3篇9章4)と記しています。いつこの世の人生を終わりにするかは、人間が自分で決めることではなく、神様御自身がお決めになることなのです。

 (2015年8月2日の説教より)