説教「十字架の死に至るまで」

フィリピの信徒への手紙2:6-8

 キリストのへりくだり
 本日お読みした聖書のうち、6節から7節にかけての部分は、先週と先々週にお話しいたしましたように、だいたい次のような意味であります。「キリストは神の本質をもっていた方でしたが、神と等しい者であることに固執して、それを自分の利益のために利用しようとは思わず、むしろ自分を無にして僕の本質をとり、罪を別にすればまったく人間と同じような者になられました。」本日学びますのは、それに続く7節から8節にかけての箇所ですが、そこには「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と記されています。
 まず、「人間の姿で現れ」というのは、「明らかに人間として認められるようなしかたで現れた」という意味でありましょう。神の本質をもっておられる方がまったく人間と同じような者になられたというと、私たちはいわばスーパーマンのようなヒーローを思い浮かべるのではないでしょうか。そして、そのヒーローがいざというときに全能の力を発揮する姿を想像するのではないでしょうか。確かに、キリストはさまざまな奇跡をもって病の人をいやしたり、死人を生き返らせたりなさいました。しかし、キリストの救いの御業の本質は、全能の力をもっておられたキリストが、あえてへりくだってくださったというところにありました。そこで、8節では「へりくだって」と続きます。この「へりくだって」は、ギリシア語原典では「自分をへりくだらせ」と記されています。そうしますと、7節の「自分を無にして」という言い方と似ていることに気づきます。キリストの謙遜とは、まず神の本質をもつキリストが自分を無にして僕の本質をとり、罪を別にすればまったく人間と同じような者になられた、ということでありました。しかし、それだけではとどまらなかったということです。人間の姿で現れたキリストが、さらに人間として「自分をへりくだらせた」というところに、恐るべき深さがあったのでした。その謙遜の深さとは「死に至るまで従順でした」という深さでありました。「従順でした」とは、「父なる神の意思に対して従順でした」という意味です。ただ漠然と人の言いなりになるというような従順さのことではありません。キリストは父なる神の意思に従ってこの世に人間と同じような者としてお生まれになったのですが、それだけでなく、この世で「死に至るまで」すなわち父なる神の意思に従って死ぬというところまで、徹底的に父なる神の意思に対して従順であられたということです。私たちは謙遜な人というと自己主張をしない控えめな「腰の低い」人のことを連想します。しかし、キリストの謙遜とは単に「腰の低い」というレベルのことではありませんでした。父なる神の意思であるならば、自分の命が奪われて死ななければならなくともそれに従うというくらい、徹底的に自己否定をなさったのです。
 8節をギリシア語原典で読んでみますと、この文の最も重要な点が何であるかということに気づかされます。ギリシア語原典を直訳すれば「彼は自分をへりくだらせ、従順になりました。死に至まで、しかも十字架の死に」というようになり、「十字架の死」という言葉が一番最後に来ているのです。このことから、「十字架の死」という言葉が、この文で最も重要ないわばクライマックスであるということがわかります。「死に至るまで従順であった」ということは、聞きようによっては美しく響く言葉です。たとえば、ある人物が主君に対して「死に至るまで従順であった」と言うことによって、死という悲惨な現実が何か美しく尊いもののように思われる場合があるかもしれません。死というものを美化することによって、死んだ人が英雄の地位にまつり上げられるのです。それでは、パウロもキリストの死を美化することによって英雄としてまつり上げようとしているのでしょうか。決してそうではありません。

 十字架の死とは
 「十字架の死」とは、決して美化されえない、最も悲惨で忌み嫌われるべき死に方でありました。まず、ユダヤ人の考えによれば、十字架の死は神に呪われた死でありました。旧約聖書申命記21章23節には「木にかけられた死体は神に呪われたもの」と定められており、十字架によって処刑されるということは「神に呪われたもの」となることを意味していました。「神に呪われたもの」ということは、現世においても来世においても救いを受けることのできない永遠の滅びを意味しています。イエスを「十字架につけろ」と叫んだユダヤ人たちの気持ちは、イエス・キリストを現世においても来世においても永遠に抹殺せよということだったのです。さらに、ローマ人の考えによれば、十字架の死はあらゆる刑罰の中で最も残酷で忌むべきものでありました。十字架刑は、ローマ帝国の市民権を持たない住民に対して執行される刑罰でした。ローマの哲学者キケロは「『十字架』という言葉は、ローマ市民の体のみならず、その考えや目や耳にも触れてはならない」という意味のことを書いているそうです。すなわち、十字架というのはまともな人間の死に方ではなく、想像することさえ忌まわしいようなものだったということです。このように、新約聖書の時代の人々にとって「十字架」とは忌まわしくつまずきになるもの、すなわちスキャンダル以外の何ものでもなかったということです。ある新約聖書の研究者は次のように書いています。「私たちは思い起こさねばならない。フィリピ教会の誰も十字架を信仰のシンボルにはしていなかったということを。すなわち、聖書の表紙に浮き出しにされたり、首の周りにペンダントとして飾られたり、教会の尖塔の先にライトで照らされたりするような金色の十字架はなかったということを。十字架は神の、そして彼らのスキャンダルであり、人間の知恵と力に対する神の否定であった。」ですから、ユダヤ人の考えからしてもローマ人の考えからしても、キリストは決して美化されえない人間として最低の死に方をなさったのです。そして、人間として最低の死に方をするというところまで、父なる神の意思に従順であられたということです。

 キリストと一つになる
 8節の「へりくだって」という言葉を読んで、3節に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいという勧告の言葉があったことを思い起こした方もおられるでしょう。この二つの箇所はギリシア語原典で読んでみると、言葉の上でも互いに関連し合っていることがわかります。ですから、パウロはクリスチャンが互いにへりくだるべきことの根拠として、キリスト御自身のへりくだりということを述べているのです。それでは、キリストのへりくだりとクリスチャンのへりくだりはどのように結びつくのでしょうか。キリストが十字架の死に至るまでへりくだってくださったのだから、あなたがたもその模範に倣って互いにへりくだりなさいということでしょうか。確かに、聖書の中にはそのような考え方もあります。たとえば、ペトロの手紙一2章21節には「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残された」とあります。本日の箇所をそのような意味で解釈することもできるでしょう。しかし、それだけでは、キリストの十字架について記すパウロの意図を十分に理解したことにはならないでしょう。パウロはここで、キリストが私たちに代わって「十字架の死に至るまで」神に対する従順を果たしてくださったのだから、あなたがたもそのキリストの恵みにあずかって神の意思に対して従順な者となりなさい、と勧めているのです。宗教改革者のカルヴァンは「かれ(キリスト)のものは、すべてわれわれのものであり、われわれはかれにおいていっさいを所有し、われわれ自身のうちには何ものもない」と述べています。信仰によってキリストと結ばれ一体となることにより、キリストの従順が私たちの従順となり、キリストのへりくだりが私たちのへりくだりとなるのです。そして、キリストのへりくだりが私たちのへりくだる力の源となるのです。
(2015年10月4日の説教より)