説教「共に恵みにあずかる者」

フィリピの信徒への手紙1:7-8

 福音を宣べ伝えるという務め
 使徒パウロは、フィリピの信徒たちがキリストの福音を聞いて、信じ、救われ、キリストの福音を宣べ伝えることに参加しているのを、深く神に感謝していました(5節)。そして、フィリピの信徒たちが福音にあずかっていることは神の業であるから、神がフィリピの信徒たちの信仰を支え、クリスチャンとして養い育て、終わりの日には栄光を与えてくださるということを確信していたのです(6節)。パウロはそのような確信の理由について、7節で次のように説明しています。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。」パウロはフィリピの信徒たちが「共に恵みにあずかる者」だと言っています。本日は、このことについて深く考えてみたいと思います。  使徒パウロは、キリストの福音によって救われ、キリストの福音を宣べ伝えた人でありました。ですから、パウロがキリストの恵みについて語るときには、単に自分が受けることだけでなく、奉仕によって人々に与えることも「恵み」であると考えていました。パウロは、自分に委ねられた、福音を宣べ伝えるという務めや奉仕を「恵み」と言うことがあります(一コリント3:10、ガラテヤ2:9参照)。そこで、「共に恵みにあずかる者」という箇所を「共に福音を宣べ伝える務めにあずかる者」と読み替えてみますと、7節の後半は以下のようになります。「というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に福音を宣べ伝える務めにあずかる者と思って、心に留めているからです。」  パウロはローマで監禁されています。そして、日々ローマの人々に福音を弁明し立証しています。やがて、裁判の日が来たならば、皇帝の前に一人で立たねばなりません。福音を宣べ伝える務めは孤独で厳しいものです。しかし、パウロは孤立しているわけではありません。「共に福音を宣べ伝える務めにあずかる者」であるフィリピの信徒たちがいるからです。彼らは監禁されたり裁判にかけられたりしているわけではありません。しかし、彼らもまたイエス・キリストを証しするために戦っているのです。フィリピはローマの軍隊を除隊した兵士たちによって建てられた植民都市であり、ローマの皇帝を神として崇める皇帝礼拝が盛んであったと推定されます。そのような雰囲気の中で、イエス・キリストこそ主であると信じ告白することは、形こそ違っていても本質的には同じ戦いを戦っていることでした。場所は違い、具体的な状況は違っていても、福音を宣べ伝える務めを委ねられ、そのために苦難を負っているフィリピの信徒たちがいるということをパウロは知っていました。ですから、パウロの心とフィリピの信徒たちの心は、福音によって互いに響きあっていたのです。

 キリスト・イエスの愛の心
 パウロの心とフィリピの信徒たちの心の響き合いは、続く8節を読むとさらによくわかります。すなわち、「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」とあります。フィリピの信徒たちの心と響き合っていたのは、パウロの中にある「キリスト・イエスの愛の心」でありました。この「愛の心」と訳されているギリシア語原典の言葉は、なかなか興味深い言葉です。これはギリシア語でスプランクノンといい、もともと内蔵やはらわたを指す言葉です。そこから転じて心という意味になり、さらに転じて愛の心という意味になりました。このような意味が加わっていくのは、日本語でも深い悲しみを表すときに「断腸の思い」というような言い方があることからもおわかりいただけることと思います。そして、この言葉には「憐れむ」「同情する」という意味のスプランクニゾマイという動詞形があります。この動詞は聖書の中の印象的な場面でしばしば用いられています。たとえば、キリストが一人息子を失ったやもめを憐れに思い(ルカ7:13)、その一人息子をよみがえらせるという奇跡を行う場面です。あるいは、よいサマリヤ人の話で、強盗に襲われ重傷を負って道端に倒れている人を見て、通りかかったサマリヤ人が憐れに思い(ルカ10:33)、手当をして宿屋に連れて行くという場面です。さらに、放蕩息子の話で、一文なしで帰って来た息子を見て、父親が憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻する(ルカ15:20)という場面でも、この動詞が用いられています。これらはいずれも心の底からの深い同情や愛情を表しています。パウロはそのような「キリスト・イエスの愛の心」を自分の中にもっていました。そして、それは神によって与えられたものでした。ですから、パウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます」と述べているのです。

 キリストのために共に苦しむ
 キリストの福音を宣べ伝える務め自体が恵みであるというのは、理解し難いことかもしれません。私たちは「恵み」という言葉で、棚からぼた餅のような何の苦労もないものを連想しがちです。しかし、それはキリストの恵みとは異なっています。パウロは少し後の1章29-30節で次のように記しています。「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」とは、いったいどういうことでしょうか。このことを理解するためには、宗教改革者カルヴァンが信仰者の十字架の修練の意味について記しているところが助けになります。「それ(十字架の修練)は、あなたが自分の弱さを正しく認めるために役立つのである。あなたが自分自身の弱さを感得するとは、あなた自身に信を置かぬことを学ぶためである。あなた自身に信を置かぬとは、信頼を神に移すためである。」(『キリスト教綱要』第3篇8章3)カルヴァンが教えているように、信頼を神に移すと、私たちの心に揺るがぬ希望が与えられます。キリストが私たちのために十字架上で死んで復活して天に昇り、天国から私たちを招いておられるという揺るがぬ希望が与えられるのです。このように、共に苦しみ、共に揺るがぬ希望を抱くことこそ、「共に恵みにあずかる」ということなのです。

 十字架のキリストとの共感
 パウロとフィリピの信徒たちの置かれていた場が異なるように、私たち一人一人のこの世で置かれている場も異なっています。しかし、私たちはキリストを証しするという同じ務めを与えられ、同じ戦いを戦っています。そして、共に苦しみ、共に揺るがぬ希望を抱きたいと願っているのです。週の初めに日に守る礼拝は、私たちが共なる苦しみと共なる希望を確認する場でもあります。そのように申し上げると、「教会に来ているあの人は、私よりも健康に恵まれている。お金に恵まれている。家族に恵まれている。人間関係に恵まれている。どうしてあの人と私が共に苦しむ者と言えるだろうか?」と疑問をもたれる方もおられるかもしれません。しかし、忘れてはなりません。私たちが礼拝に集うときに、私たちは主イエス・キリストに招かれて、主イエス・キリストのもとに集うのです。私たちに代わって、十字架について苦しんでくださったキリストのもとに集うのです。ですから、たとえ私たちの心が互いに響き合うことができないように思える場合でも、言い換えれば互いの苦しみに共感することができないように思える場合でも、私たち一人一人は十字架上のキリストと共感し合うことができるのです。そして、十字架上のキリストと共感し合うことによって、まさしく十字架上のキリストと共感し合うことによってのみ、私たちは互いの苦しみに共感し合うことができるのです。言い換えれば、キリストの苦しみに共鳴し合うことによってのみ、私たち一人一人の心は互いに共鳴し合い、響き合うことができるのです。そして、一つの希望を共有し、天におられるキリストに希望をおくことができるようになるのです。
(2015年6月21日の説教より)