説教「天に昇ったキリスト」

ルカによる福音書24:50-53

 祝福するキリスト
 本日の聖書の箇所では、イエス・キリストがこの地上から天に昇られた出来事が記されています。これは普通キリストの昇天と呼ばれる出来事であります。漢字で「しょうてん」と書く場合、「天に召される」と書く場合と「天に昇る」と書く場合の両方があります。「天に召される」と書く場合は、クリスチャンが地上の歩みを終えて天に召されるという意味で用います。「天に昇る」と書く場合は、キリストが復活後40日にわたって弟子たちに復活の体を現わされた後に、天に昇って父なる神のみもとに帰られたという意味で用います。「日本キリスト教会信仰の告白」の中の使徒信条でも、キリストが「三日目に死者のうちより復活し、天にのぼりて全能の父なる神の右に坐し給ふ」と告白されています。キリストの昇天はキリストの復活と切り離すことのできない出来事です。そして、キリストが天に昇られたことによって、キリストの復活が私たちにとって本当に意味のあることとなったと言うこともできるでしょう。  50節には「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」とあります。キリストの復活と昇天の間には40日という日数の経過がありました(使徒1:3-11)。44-49節のキリストの言葉は、イースターの夕べに語られたことではなく、復活後40日にわたってお語りになったことの要約であろうと思われます。したがって、「そこから」という言葉を、イースターの夕べに弟子たちが集っていたエルサレムの家からと取ることには無理があります。口語訳聖書と新改訳聖書は「そこから」ではなく「それから」と訳しており、その方が原典の意味によく合っています。つまり、40日が経過した後に、キリストが弟子たちをエルサレム近郊のベタニアに連れて行かれたということであります。これは、いよいよ天に昇るべきときが近づいたので、それを見届けさせるために弟子たちを特別の場所に連れて行ったということでありましょう。キリストはそこで弟子たちを「手を上げて祝福された」のでした。手を上げて祝福するのは、旧約聖書以来なされてきた祭司の祝福のしかたです。キリストは信じる者たちを祝福して、「祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(51節)のでありました。そして、キリストは、今に至るまで父なる神の右の座で大祭司として神にとりなしをしつつ、私たちのことを祝福してくださっているのであります。

 キリストが天に昇られる前になさったのが祝福であるというのは、たいへん意義深いことであります。そこには別離の悲しみや悲壮感はありません。私が天に昇って行ったらあなたたちは信仰を守って生きていけるだろうか、というような心配もありません。なぜなら、天に昇りその体が天に移されても、キリストは霊において弟子たちと共にいることができるからであります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とキリストはおっしゃいました。また、天に昇られたのがどのような有様であったのかということは、ここでは記されておりません。使徒言行録1章9節には「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」というように、少し詳しく記されています。これは科学的に考えるならば、まったく説明のつかないことでありましょう。ここで私たちは、死者の中から復活したキリストがもはや朽ちることのない「霊の体」をもっておられたということを思い起こさねばなりません。「霊の体」をもったキリストは、弟子たちの前に自由に現れたり姿を消したりすることができました。つまり、復活したキリストは時間と空間を超越した存在になっておられました。そのような超自然的な体をもっておられたキリストでしたから、「天に上げられた」という超自然的な出来事も可能であったのでした。

 喜びに満たされた弟子たち
 弟子たちは、この不思議な出来事をもはや恐れたり疑ったりするのではなく、喜びをもって受け止めました。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(52-53節)弟子たちは、かつて復活のキリストを見たときには亡霊だと思って恐れました(ルカ24:37)。しかし、今ではそのときよりもはるかに進歩していました。弟子たちはキリストが帰るべきふるさとに帰られ、座すべき王座につくために天に昇られたということを理解し、そのことを喜びをもって受け止めたのでした。彼らはキリストこそ王の王、主の主であることを確信しました。その確信が「イエスを伏し拝んだ」という礼拝の行為に現れています。また、弟子たちは、キリストが天にあっても彼らを見捨てることなく彼らと共にいてくださること、そして彼らを天で待っていてくださるということも確信していました。「大喜びでエルサレムに帰り」というところに、そのような彼らの救いの確信が現れています。さらに、天の王座につかれたキリストが共にいてくださることをも確信していました。ですから、もはやユダヤ人を恐れて部屋の中に閉じこもることもありませんでした。彼らはエルサレムの神殿に行って、イエス・キリストの父なる神を讃美しました。「絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」というのは、24時間神殿にいたという意味ではなく、弟子たちが多くの時間を神殿で神を讃美してすごしていたということでありましょう。彼らは家でも共に祈り約束された聖霊が降るのを待ち望んでいました。そして、使徒言行録に記されておりますように、ペンテコステの日に天から聖霊が与えられ、キリストの証人としての本格的な活動を開始したのでありました。 福音書記者のルカはキリストの降誕から昇天までを、歴史家として、また神学者として非常に丁寧に記しています。天使がマリアにキリストの受胎を告げる、いわゆる受胎告知の場面で、天使は次のように言っています。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)すなわち、処女マリアの胎において、聖霊により神性(神の性質)と人性(人の性質)が結合し、真の神であり真の人であるイエス・キリストがこの世に誕生したのでありました。 キリストは人として私たちのために苦しみを受け、私たちのために十字架上で死に、私たちのために死者の中から復活されました。そして、私たちのために天に昇られたのでありました。キリストは処女マリアの胎に宿る前、父なる神のふところで神の独り子として神性をもっておられました(ヨハネ1:1、18)。しかし、人の肉体をとってこの世にお生まれになり(ヨハネ1:14)、救いの御業を成し遂げて昇天されたときには、神性だけではなく、人性をももって天にお帰りになったのであります。これが何を意味しているかと言えば、人間が神の国すなわち天国に入ることができるということであります。この地上の命が終われば、むなしく塵に返っていくしかなかった人間が、復活の命を受けることによって天国に入り、永遠にそこに住むことができるようになりました。その最初の一人がイエス・キリストであるということです。ですから、宗教改革車のカルヴァンは、キリストが昇天なさったことによって私たちに「天国への入口を開きたもうた」(『キリスト教綱要』第2篇16章16)と言うのであります。(2015年5月31日の説教より)