コリントの信徒への手紙一15:25-28

すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。(一コリント15:27-28)

父なる神様は、独り子キリストにすべてのものを服従させ、支配をおゆだねになりました。そして、キリストの支配に逆らうものがすべて滅ぼされたときに、キリストご自身も父なる神様に服従して、すべてのものを支配する権威をお返しになり、父なる神様が直接にすべてのものを支配し、すべてのものが父なる神様に服従するようになる、ということなのです。言い換えますと、この世界が最初に創造されたときのように、父なる神様が直接にすべてを支配され、すべてがよい状態で安らいでいる平和の状態が最後に到来する、ということです。

宗教改革者のカルヴァンは、この「神がすべてにおいてすべてとなられる」ということを、終わりの日における「来るべき安息の完成」であると理解しています。そして、十戒の「安息日を心に留め、これを聖別せよ」という戒めは、「この完成を求めて安息のたえざる瞑想を通じてあこがれるため」にあると述べています(渡辺信夫訳1962年版、第2篇8章30)。つまり、私たちが週に一度自分の仕事を休んで神様を礼拝するのは、私たちの人生の歩みとこの世界の歴史が「安息の完成」によって終わるということを思い起こし、それを待ち望むためであるということです。

また、16世紀に作られたキリスト教の教えの要約であるハイデルベルク信仰問答は、「神がすべてにおいてすべてとなられる」ということを「御国を来らせたまえ」という主の祈りの言葉と結びつけて理解しています。そして、「御国を来らせたまえ」とは、「あなたがすべてのすべてとなられる御国の完成に至るまで、わたしたちがいよいよあなたにお従いできますよう、あなたの御言葉と聖霊とによってわたしたちを治めてください、あなたの教会を保ち進展させてください、あなたに逆らい立つ悪魔の業やあらゆる力、あなたの聖なる御言葉に反して考え出されるすべての邪悪な企てを滅ぼしてください、ということです」(吉田隆訳、問123の答)と教えています。つまり、私たちは主の祈りを祈るたびに、世界の歴史が完成に向かって進んで行って、父なる神様ご自身がこの世界を完全に支配してくださる日が来るのを待ち望むのです。(5月10日の説教より)