ガラテヤの信徒への手紙5:2-4

律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。         (ガラテヤ5:4)

 

前に4章17節の解き明かしをしたときに、パウロの後から来た伝道者たちが「キリストを信じるだけでなく、旧約聖書の律法で定められた割礼の儀式を受けなければ完全な救いは得られない」と熱心に教えた動機は何であったかということをお話ししました。その時にお話ししたのは、パウロの後から来た伝道者たちは、自分たちやエルサレム教会の信徒たちがキリストを信じないユダヤ教徒たちから迫害を受けないために、ガラテヤの諸教会の信徒たちを自分たちと同じように割礼の儀式を重んじる信徒たちにしようとしたのではないだろうか、と推測されるということです。つまり、キリスト教にユダヤ教を加えることによって、ユダヤ教から迫害を受けないキリスト教にしようとしたということです。ところが、そのような動機から「律法によって義とされようとする」人は、「律法全体を行う義務がある」ことになり、「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」とパウロははっきりと述べるのです。

キリスト教の教えの特徴は、救いの根拠を自分自身のうちに求めないということです。つまり、自分は神様の掟を守ったから救われるという考え方に対して、はっきりと「そうではない!」ということです。そして、「救いはキリストを信じることによって与えられる」ということです。さらに、キリストを信じて救われた人は、聖霊を受けて清められ神様の喜ばれることをして生きるようになるということです。第一に、救いの根拠は行いではなく信仰のみです。そして第二に、救いの結果、聖霊の働きによって善い行いという実りが生じます。この第一と第二の順序を大切に守ることこそが、キリスト教の信仰をしっかりともつことになるのです。キリスト教とほかの宗教を安易に結びつけて、救いの根拠を自分自身の行いにすることのないように気をつけましょう。

(3月17日の説教より)