コリントの信徒への手紙二12:11-13

わたしは使徒であることを、しるしや、不思議な業や、奇跡によって、忍耐強くあなたがたの間で実証しています。(二コリント12:12)

「使徒」は、ギリシア語でアポストロスと言い、「遣わされた者」という意味です。復活したキリストに出会って、キリストを証しする証人として遣わされた人のことです。先ほどお話しした「ヤコブとケファとヨハネ」は使徒ですし、キリストを裏切ったユダ以外の十二弟子も使徒です。パウロは十二弟子のように、キリストがこの世で生きておられたときに弟子であったわけではありませんが、クリスチャンを迫害していたときに天におられる復活したキリストに出会って回心し、使徒とされたのでした。使徒の活動には、「しるしや、不思議な業や、奇跡」が伴っていました。使徒言行録を読むと、パウロも奇跡を行っていたことが記されています。たとえば、使徒言行録の19章11節と12節には「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」と記されています。この記述は、コリントではなくエフェソでの出来事を記したものですが、「神は」という主語からわかるように、奇跡を行ったのは、実はパウロではなく神様であったということを示しています。

実は、本日の箇所の12節も、ギリシア語の原典では奇跡を行ったのは神様であるということを示唆するような文になっています。2018年に日本聖書協会によって出版された新しい翻訳の聖書は、その原典のニュアンスをよく表しています。すなわち、「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、しるしと不思議な業と奇跡です」という翻訳です。私たちが今使っている新共同訳聖書では、パウロ自身が奇跡を行って使徒であることを実証したように翻訳されています。しかし、原典では「あなたがたの間でなされた」というように受け身の形で書かれているのです。これは、7節の「一つのとげが与えられました」のときにも説明しましたように、神様が行いの主体であることを表す「神学的受動態」(theological passive)という言い方です。つまり、「しるしと不思議な業と奇跡」を神様がしてくださったということを、「なされた」という受け身の形で表しているのです。新約聖書の時代の使徒たちは、この世界で最初にキリストの十字架と復活を宣べ伝えた人たちでした。したがって、それから約2000年後の現代ではあまり見られないような奇跡が、キリストを宣べ伝える伝道に伴っていたのでした。現代では使徒たちの時代のような奇跡が起こることはまれですが、それでも神様が思いがけない不思議な業をしてくださるということはあります。       (11月13日の説教より)