コリントの信徒への手紙二11:21b-27
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、(二コリント11:24)
旧約聖書の申命記25章2-3節には、犯罪人を鞭打ちの刑にするときに、その回数は四十回までとしなければならないことが定められていました。「四十に一つ足りない鞭」というのは、四十回を超えないように一回少なくしたということかもしれません。ユダヤ人から鞭打ちの刑を受けたということは、パウロが旧約聖書の律法に違反したとみなされたからでしょう。おそらく、十字架につけられて死んだイエスを救い主と信じて宣べ伝えたことが、神に対する冒涜とみなされたのだろうと思います。
旧約聖書のレビ記24章14節には神を冒涜した者を「石で打ち殺す」ことが定められていますし、民数記15章30節には神を冒涜した者が「民の中から断たれる」と定められています。ところが、聖書の研究者によれば、実際には神を冒涜した者に対する罰としては鞭打ちが行われていたらしいのです。そして、鞭打ちによって犯罪人が死んでも、鞭打ちをした人は非難されないことになっていました。つまり、ユダヤ人による鞭打ちは、それによって死ぬ可能性もあるくらい過酷な罰であったということです。その罰を五度も受けたパウロはどれほど苦しい思いをしたことでしょうか。
その次の「鞭で打たれたことが三度」とありますのは、ユダヤ人ではなく異邦人による刑罰のことです。「鞭で打たれた」と翻訳されているラブディゾーというギリシア語は、ギリシア語の辞典によれば「棒で打つ」と翻訳する方がより正確です。2018年に日本聖書協会から主版された新しい翻訳の聖書は、この箇所を「棒で打たれたことが三度」と翻訳しています。使徒言行録の16章22節には、パウロがシラスと共にフィリピで投獄されたときに、ローマ帝国の市民権をもっているにもかかわらず裁判も受けずに鞭で打たれたことが記されています。実はこのフィリピでの鞭打ちのときもラブディゾーという言葉が使われていますので、実際は棒で打たれたのではないかと思われます。
考えさせられるのは、パウロが棒で打たれて投獄される前に、自分がローマ帝国の市民であることを主張していない点です。フィリピの市の高官たちは、パウロとシラスを投獄した翌日に二人を釈放しようとします。ところが、そのときになってパウロとシラスがローマ帝国の市民権をもっていることを知って恐れ、謝罪しています。ローマ帝国の市民を裁判も受けさせずに棒で打って投獄したことが明らかになれば、逆に自分たちが罰せられるからです。それくらい強い権利をもっていたのに、パウロは最初はその権利を主張しないで、棒で打たれるままになっていました。それは、ローマ帝国の市民権をもたないクリスチャンたちが受ける苦しみを、自分たちも受けようという気持ちであったのかもしれません。
(10月9日の説教より)