コリントの信徒への手紙二11:16-21a

もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。
(二コリント11:16)

この「わたしを愚か者と見なすがよい」という言葉は、21節後半の「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう」という言葉とつながっています。つまり、「自分で自分のことを誇るのは愚か者のすることだとわかっているが、わたしもあえて愚か者になって自分を誇ろう」とパウロは述べているのです。そして、その後で、パウロは自分がユダヤ人として、クリスチャンとしていかに誠実に生きてきたかを述べ、11章30節で「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう」という実に意外なことを書き始めるのであります。つまり、偽者の伝道者たちは自分たちの優れているところを誇るのですが、パウロは自分の弱さを誇ると言います。それは、12章の9節に記されているように「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」ということなのです。
17節から21節前半までは、21節の後半で「愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう」と言うための準備の文章です。まず、17節と18節でパウロは「わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう」と述べます。「多くの者が肉に従って誇っている」というのは、コリント教会に入って来た偽者の伝道者たちが自分たちの外見や実績を誇っていることを指していたのでしょう。そして、自分で自分を誇るというようなことは、十字架の死にいたるまでへりくだられた「主の御心に従って」することではなく、むしろ世俗的な愚か者のすることなのだが、あなたがたコリント教会の信徒たちがそのような世俗的な愚か者の偽の伝道者たちを受け入れているのだから、わたしも同じようにしてみよう、ということです。これは、大胆に言い換えますと「わたしもあなたがたのレベルに合わせて自分を誇ってみよう」ということです。世俗的な傾向の強いコリント教会の信徒たちは、自分で自分を低くして伝道するパウロの偉大さをなかなか理解することができませんでした。逆に、同じように世俗的で自分を誇って上手に自己PRをする偽者の伝道者たちの方に心を引かれていたのです。ですから、パウロは自分も同じように自己PRをしてみましょう、とユーモアと皮肉を込めて語りかけているのです。           (10月2日の説教より)