ルカによる福音書8:40-48

この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。              (ルカ8:44)

キリストが会堂長の家に到着される前に、もう一つの別の奇跡が起こりました。12年間子宮からの出血に苦しめられてきた女性を癒すという奇跡です。この女性は長い間、出血の病に苦しめられてきました。その症状が苦しいものであったことは言うまでもありません。しかし、それでだけでなく、旧約聖書のレビ記15章に記された儀式律法によるならば、男であっても女であっても、性器から血や体液が流れ出ると汚れたとみなされました。ですから、彼女は汚れた者として長い間人々の共同体の外に置かれてきたのでした。人々の共同体の外に置かれた彼女の孤独を想像すると、心ある人ならば同情を禁じることができないでしょう。しかも、彼女は治療のために全財産を使い果たしていました。病、孤独、貧しさと、それらから来る底無しの悲しみが彼女の存在を満たしていたのでありました。

ですから、彼女は会堂長ヤイロのように正面からイエス・キリストの足元にひれ伏すことすらできませんでした。彼女にできたのは、後ろから近づいていってイエス・キリストの衣のすみにある房(ふさ)に触ることぐらいでした。旧約聖書の掟に従って(民数15:38、申命22:12)、ユダヤの人々は衣の四すみに房をつけていました。彼女は、せめてこの衣の房にでも触れれば、病を癒していただけるだろうと信じたのでした。そして、彼女が房に触れると、驚くべきことに直ちに彼女の出血が止まりました。これは科学的に説明できることではありません。信仰による奇跡であります。単に物理的にキリストの衣に触れたから病が癒されたというのではなく、キリストの愛と力が彼女のひたむきな信仰を通して彼女の存在の中に働いて、癒しの奇跡が起こったのでした。彼女がキリストの衣の房に触れたのは、そのひたむきな信仰の表現でした。

キリストの側について言いますと、彼女を癒そうという意図はキリストにはありませんでした。しかし、誰かが自分に触れて、自分の内側から力が出て行ったのを、キリストはお感じになったのであります。そこで、キリストは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」(46節)とおっしゃいました。キリストの内に満ちている愛と力が、12年間もの長い間出血に苦しんできた女性の謙遜で真実な信仰を通して、流れ出ていったのでした。しかし、キリストは「私の力が奇跡を起こした」とはおっしゃいませんでした。むしろ、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(48節)とおっしゃいました。実際は、キリストの愛と力こそが、癒しの奇跡を引き起こした源でした。しかし、キリストは、信仰によってその恵みの水源から水を引き入れる水路を開いた、女性の側の姿勢をたたえて、「あなたの信仰があなたを救った」とおっしゃられたのであります。     (9月4日の説教より)