ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。 (一コリント15:16)

「一人一人にそれぞれ順序があります」という「順序」とは、一体どのような順序のことなのでしょうか?「最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち」というのは、復活の順序のことです。まず、十字架上で死なれたキリストの復活があって、そして、世の終わりに、天に昇られたキリストがこの世を裁くために再び来られるときに、「キリストに属している人たち」がキリストと同じような永遠の命の体に復活することが起こるということです。これは、使徒信条で「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」とあり、また「からだの復活」を信じます、と告白されているとおりです。キリストは死者の中から復活した「初穂」です(20節)。「初穂」があるということは、それに続くたくさんの収穫があることです。「キリストに属している人たち」は、「初穂」の後に実るたくさんの収穫のように、終わりの日の最後の審判の時にキリストと同じような永遠の命の体をもって復活するのです。「キリストに属している人たち」というのは、キリストと信仰によって結ばれている人たちのことです。

注意をしてこの箇所を読みますと、24節の「次いで、世の終わりが来ます」という言い方には、少し奇妙な印象を受けます。日本キリスト教会信仰の告白の中でも、教会は「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」と告白されておりますように、私たちは、キリストが再び来て最後の審判を行われる時が「終わりの日」であると信じています。そうすると、キリストが再び来られて最後の審判を行い、「キリストに属している人たち」が永遠の命の体をもって復活するのも「終わりの日」の出来事であるはずです。それなのに、なぜパウロは「次いで、世の終わりが来ます」と言うのでしょうか?それは、「終わりの日」において、「キリストに属している人たち」が永遠の命の体をもって復活するという出来事に続いて、その後に記されているキリストがすべての支配や権威や勢力を滅ぼすという出来事と、父である神に国つまり支配権を引き渡すという二つの出来事が起こるということでしょう。つまり、「終わりの日」の「終わり」に起こる出来事ということなのでしょう。ちなみに、この箇所は、ギリシア語の原典で読みますと「それから、終わりです」とだけ書かれていて、「世の」という言葉や「来ます」という言葉は原典にありません。 (4月17日の説教より)