コリントの信徒への手紙二7:11-13a

例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。    (二コリント7:11)

「例の事件」というのは、「みだらな者」を悔い改めさせるためにパウロがコリント教会を訪問して指導をしたときに、「みだらな者」が悔い改めないで反抗した事件のことです。どのような反抗の仕方をしたかはわかりませんが、教会の公の場でパウロを侮辱して罵るようなことをしたのではないでしょうか。ほかの信徒たちはパウロに反抗する「みだらな者」をその場で叱るべきでした。そして、その反抗の仕方がクリスチャンとしてしてはならないようなものであるならば、単に叱るだけでなく、罰を与えるべきでした。しかし、ほかの信徒たちは反抗する「みだらな者」を黙認しました。黙認したということは、信徒たちの心の中に「みだらな者」に同情する気持ちがあったからでしょう。コリントの信徒への手紙一からもわかりますように、コリントの教会には、本来ならば教会の中であってはならないようなことが平気で行われるような雰囲気がありましたから、厳しい指導を受けた「みだらな者」にほかの信徒たちが同情したとしても不思議ではありません。その結果、コリント教会の信徒たちはパウロの指導に従わなかったことになります。

そうすると、厳密に言えば、コリント教会の信徒たちは、事件が起こったその時点では決して潔白であったとは言えません。「みだらな者」に対してなすべきことをなさなかったという罪があったのです。神様の目から見るならば、いわゆる不作為の罪があったと言ってもよいでしょう。しかし、パウロは「あの時はあなたがたに罪がありましたが、今は赦してあげましょう」というような言い方をしてはいません。「例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました」とさらりと書いています。これは、この手紙の2章6節でパウロが「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」書いているように、コリント教会の信徒たちが悔い改めて「みだらな者」を教会の交わりから除外するような罰を与えたからでしょう。パウロは悔い改めた時点での信徒たちの行動を評価して、「あなたがたは潔白である」と認めているのです。このようなものの見方にも、パウロの信徒たちに対する愛が表れています。         (2月6日の説教より)