テサロニケの信徒への手紙一5:4-8

「しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」             (一テサロニケ5:4)

人間が自己中心的になり他者を軽視するというのは、形や程度の違いこそあれ古今東西に共通する人間の現実であると思われます。自己中心的な生き方は、自分が有能な人間であるというプライドだけではなく、地上の命は限りあるものだから自分の快楽を追求して生きるのは当然だ、といういわば開き直りの人生観にも基づいていると思われます。そのような人生観は、現代になって初めて生まれたのではなく、すでに新約聖書の時代からありました。使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の15章32節で、死んだ人が復活するというキリスト教の教えを否定する人たちの人生観を示す言葉を引用しています。すなわち、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」という言葉です。聖書の教える「死者の復活」や「永遠の命」ということがなく、この世がすべてだとすれば、この世に生きている間にできるだけ快楽を得ようという考えに傾くのは当然のことでしょう。このような現世中心の考え方が、聖書の時代でも現代の日本でも、自己中心的な生き方の根底にあると言えるでしょう。(中略)

本日の聖書の箇所は、自己中心的で自分の快楽を追求するようなこの世の人々の中で、キリストを信じる人が終わりの日に備えて、どのように生きていくべきかということを教えているところです。少し前の5章2節で、パウロは、キリストによる最後の審判の日に備えていないこの世の人々にとっては、「主の日」と呼ばれる最後の審判の日は「盗人が夜やって来るように」来ると言います。神様の意思や神様の喜ばれることではなく、自分の意思を実現することや自分にとって喜ばしいことを追求して毎日を過ごしているこの世の人々は、この世に終わりの日があり、キリストによる最後の審判があるとは信じていません。ですから、最後の審判の日が来たときには、突然盗人に襲われた人のように驚いて災いを受けるのです。

4節の「暗闇」とは、まことの神様の意思を知らないで、自己中心的に罪の中を歩んでいるような状態のことです。パウロは、「兄弟たち」とテサロニケ教会の信徒たちに呼びかけ、「あなたがたは暗闇の中にいるのではありません」とはっきり告げます。つまり、あなた方は神様の意思を知らないで罪の中を歩んでいるこの世の人々とは違うのだと言って、自覚を促しているのです。そして、クリスチャンはキリストによる最後の審判を信じてその備えをする者ですから、パウロの言うように「主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです」と安心をさせているのです。

(12月12日の説教より)