テサロニケの信徒への手紙一5:1-3

兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。       (テサロニケの信徒への手紙一5:1-2)

終わりの日と来るべき世を待ち望む正しい信仰をもちますと、それによってどのような生活が形成されるのでしょうか?来世を強調する信仰は、現実の世界を否定する危険な態度につながると思われがちです。はたしてそうでしょうか?確かに、自分だけが来世で救われればよいというように、自己中心のエゴイズムのために来世の観念が利用されるならば、それは有害です。しかし、キリストにすべてをゆだねる信仰が徹底しているならば、来世を待ち望むことによって、むしろ積極的で建設的な生活をすることができるのであります。無教会主義の内村鑑三の薫陶を受けたクリスチャンである藤井武という人は、来世の確信があってこそ勇敢で楽天的な生活をすることができると言っています。藤井武の文章は文語調でそのまま読むとわかりにくいので、口語に直してご紹介したいと思います。

「なぜ、来世を固く信じることは、人を勇敢かつ楽天的にするのであろうか。その人は人生に無限の進歩の未来があることを知り、人生の価値が測ることのできないほど大きなものがあるのを覚えるので、人生のために献げるいかなる犠牲も惜しまないからである。また、自分の命が朽ちないものとなり、遅かれ早かれ必ず完成されるべきものであることを信じるので、どのような失敗も失望の理由にならないからである。すべての勇敢な生涯は、犠牲を惜しまない生涯である。そして、犠牲はその目的の価値が大きいほど払うことがたやすい。もしこの世のとても小さい一人の魂であっても、神の前には永遠の未来をもっていて、キリストご自身がそのために命を棄てたほどの価値をもっているならば、そのために私も自分の涙と血を注いで何の惜しいことがあるだろうか。現に、多くの聖なる人々や殉教者が、皆このことを信じて貴い犠牲の生涯を送ったのである。また、すべての楽天的な生涯は失望を知らない生涯である。そして、輝く来世の生活を固く信じる者には、何があっても失望だけはあり得ない。」

(『藤井武全集』第3巻より)

(12月5日の説教より)