コリントの信徒への手紙二5:18-19

 

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。         (二コリント5:19)

「神はキリストによって世を御自分と和解させ」というのは、神様がキリストの十字架によって全人類を御自分と和解させたということです。注意したいのは、その後の「人々の罪の責任を問うことなく」という言葉です。この「人々」というのは、ギリシア語の原典では「彼らの」という言葉ですが、その前の「世」を言い換えているのですから、全人類ということでしょう。神様は全人類の罪の責任を問わないで、キリストの十字架を宣べ伝える和解の言葉をパウロたちにゆだねられたというのです。

神様が、御自分に逆らった全人類の罪の責任を問わないとはどういうことでしょうか?「責任を問う」と翻訳されているロギゾマイというギリシア語は、「計算する」という意味の言葉です。英語の聖書では、しばしばcountという言葉で翻訳されています(ESV、NRSV、 NIV2011)。つまり、神様はキリストの十字架のゆえに、人々の罪をカウントなさらないということです。神様はキリストの十字架のゆえに、人々の負債を帳消しにしてくださると言ってもよいでしょう。ただし、帳消しにしてくださると言っても、帳簿を改ざんして初めから負債はなかったことにするということではありません。キリストが十字架の犠牲によって人々の負債を支払ってくださったので、人々の負債が記された帳面の記載を棒線で消してくださるということです。過去に負債があったという事実は残ります。しかし、キリストが代わりに支払ってくださったことで棒引きされるのです。ある聖書の研究者は、この箇所にについて「神様が赦してくださるとき、神様は忘れるのではなく、思い出さないことを選ばれるのだ」という意味深い解説しています。これは、旧約聖書のエレミヤ書31章34節で、神様が新しい契約を人々と結ぶときに「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」とおっしゃったこととも一致しています。

キリストの十字架のゆえに、神様は人々の罪をカウントなさらないでいてくださる、というのはなんと喜ばしい知らせでしょうか!        (10月10日の説教より)