ルカによる福音書7:29-35

「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒も飲まずにいると、あなたがたは、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」

(ルカ7:33-34)

ここから、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、謙虚に洗礼者ヨハネやイエス・キリストの語ることに耳を傾けることなく、自分たちの生活の仕方の基準に基づいて、洗礼者ヨハネやイエス・キリストを批判したということがわかります。まず、罪に対する裁きを語る洗礼者ヨハネの禁欲的な生活は、正常な人間のすることではなく「悪霊に取りつかれている」人間のすることだと断定したのであります。また、罪の赦しを語り、いわゆる罪人たちとも共に飲み食いして交わりをするイエス・キリストの生活は、品位のある人間のすることではなく「大食漢」で「大酒のみ」のすることだと言うのであります。要するに、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちには、自分たちは罪人ではなく正しい人間であるという思い込みがあったのでした。そのため、より禁欲的な生活をする洗礼者ヨハネの言うことを聞こうとせず、より自由な生活をするイエス・キリストの言うことも聞こうとしませんでした。

彼らは、自分たちに裁かれるべき罪があると認めることはできませんでしたし、自分たちに赦していただくべき罪があることと認めることもできませんでした。彼らは、自分たちが神様の教えに従う生活を心がけているという自分たちの努力と、神様の目から見てそれが十分に達成されているかどうかという神様の基準との区別を見失っていたのであります。そして、神様の側の絶対的な基準によって裁かれるならば、すべての人が罪人であるという真理を認識できなかったのであります。その結果、自分たちのあり方自体が絶対的な基準になり、実質的には自分たちを神とするかのような精神構造となってしまったのであります。神様の教えを実践することを追求していたファリサイ派の人々や律法の専門家たちが、逆に神様の教えに最も反する者となってしまったのでした。ここに人間の罪の深さを思わずにはおれません。      (9月12日の説教より)