コリントの信徒への手紙一15:42-49

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

(一コリント15:45)

「最初の人アダムは命のある生き物となった」というのは、旧約聖書の創世記2章7節からの引用です。創世記2章7節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。この終わりの部分をパウロは引用しているのです。

引用にしてはずいぶん言葉が違う、と思う方もおられるでしょう。その理由の一つは、パウロがギリシア語版の旧約聖書から引用していることです。新約聖書の時代には、紀元前3世紀にヘブライ語からギリシア語に翻訳された「七十人訳聖書」と呼ばれる旧約聖書が広く読まれていました。そして、もう一つの理由は、パウロが言葉を加えて引用していることです。「最初の人アダムは命のある生き物となった」という文の「最初の」という言葉と「アダム」という言葉は、ギリシア語版の旧約聖書にはないので、パウロが引用するときに付け加えた言葉と思われます。

すなわち、この箇所でパウロは、「最初の」という言葉と「アダム」という言葉を付け加えることによって、人類の先祖である「最初の人アダム」と人類の救い主で「最後のアダム」であるキリストを対照的に示して、いかに人類の救いにとってキリストの復活が大切なことであるかを伝えようとしているのです。すなわち、人類の先祖であるアダムは土の塵で造られて「命のある」ものとなったのですが、「最後のアダム」であるキリストは永遠の命の体をもって復活して「命を与える霊となった」ということを対照的に示しているのです。キリストが「最後のアダム」と呼ばれているのは、人類を救うために最終的に遣わされた「まことの人」(日本キリスト教会信仰の告白)であったからでしょう。

「命を与える霊となった」という言葉は、とても重要な意味をもっています。すなわち、人類の先祖アダムは自分が「命のある」ものとなったにすぎませんが、人類の救い主キリストは自分が命をもっているだけでなく、他の人々に「命を与える」ものになったということです。アダムは、神様に背いて罪を犯したために、命の源である神様との正しい交わりを失って、自分が死ぬものとなったばかりでなく、子孫である人類全体をも死ぬべき存在にしてしまいました。ところが、キリストは人類の罪を償うために十字架上で死んだ後、「命を与える霊」の体に復活しました。すなわち、復活したキリストの体は「霊の体」であり、しかも他の人々に「命を与える」ことのできるものであるということです。(4月11日の説教より)