二コリント2:14「勝利の行進に連なる」

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 (二コリント2:14)

聖書の研究者たちは、パウロがローマ帝国の軍隊の勝利の行進を思い浮かべて、それをたとえとして用いていると考えています。それでは、「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」とは、どのようにして連ならせるということでしょうか?日本語で「勝利の行進に連ならせ」というと、普通に思い浮かべるのは、将軍の後に従う兵士たちとして勝利の行進に連なるということです。つまり、自分も勝利した軍隊に属する一人として、勝利した将軍をたたえながら誇らしげに行進するということです。確かに、そのように解釈する聖書の研究者たちもいます。

しかし、「勝利の行進に連ならせ」と翻訳されているスリアンビュオーというギリシア語の動詞についての研究の結果、「わたしたちを」のように「〜を」という言葉がこの動詞に続くときは、勝利した人によって征服された人、つまり敗北して捕虜となった人を勝利の行進に連ならせる、という意味であることが明らかになりました(Murray J. Harris)。そこで、最近の英語の聖書ではそのことがはっきりわかるように翻訳しているものがいくつかあります。たとえば、アメリカで広く用いられているNew International Versionという翻訳の新しいバージョン(NIV 2011)は“But thanks be to God, who always leads us as captives in Christ’s triumphal procession”(「しかし、神に感謝します。神はキリストの勝利の行進にいつも私たちを捕虜として率いてくださいます」)と翻訳しています。また、イギリスで1989年に出版され、イギリス聖公会の典礼で使用されているRevised English Bibleという翻訳では、“But thanks be to God, who continually leads us as captives in Christ’s triumphal procession”(「しかし、神に感謝します。神はキリストの勝利の行進に絶えず私たちを捕虜として率いてくださいます」)と翻訳されています。「捕虜として」という言葉を補うのは、翻訳としては大胆な試みです。しかし、この箇所を勝利した軍隊の兵士として行進に連なるという意味に取ると、パウロの述べている本当の意味は伝わらないと考えたからこそ、英語の聖書の翻訳者たちはあえて「捕虜として」という言葉を補ったのでしょう。

(2月14日の説教より)