ルカ3:7-9「洗礼者ヨハネの説教」

「悔い改めにふさわしい実を結べ。」    (ルカ3:8)

宗教改革者のカルヴァンは「神が赦しを差し出される所ではそれに応える承諾として悔い改めが求められるのが常であった」と述べています。ただし、悔い改めが求められるというのは「我々の悔い改めが赦しの請求権の基礎になるという意味」ではなく、むしろ「恵みを得たいと望むなら悔い改めを目指さねばならない」ということだと解説しています(『キリスト教綱要 改訳版』第3篇第3章20)。そして、人間の信仰そのものが神様から与えられる賜物である以上、信仰から生み出される悔い改めもまた、神様から与えられる賜物だということを忘れてはなりません。

洗礼者ヨハネは集まってきた群衆が悔い改めを目指していないことを見抜きました。なぜそれを見抜けたかというと、洗礼者ヨハネが神の言葉に従って生きる真の預言者であったからです。真の預言者は日々悪の力と戦い、神に服従して生きていました。そして、いつの時代でも真の預言者的な務めを果たす人は、自分が取り次ぐ神の言葉にまず自分が服従するということをします。使徒パウロもコリントの信徒への手紙一9章27節で「自分の体を打ちたたいて服従させます」と言い、「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」と述べています。このように「自分の体を打ちたたいて服従させる」という戦いをしていますと、罪の赦しを求めて来る相手が、本当の悔い改めをもって来ているのか、それとも安易な考えで来ているのかということが見分けられるようになってくるのです。洗礼者ヨハネは集まってきた群衆に本当の悔い改めがないことを見抜き、8節にありますように「悔い改めにふさわしい実を結べ」と迫りました。「実」とは行いのことであります。すなわち悔い改めという心の状態から生ずる善い行いのことです。

人間は行いによって救われるのではなく信仰によって救われます。しかし、行いを全く伴わないような信仰は本当の信仰ではありません。主の兄弟ヤコブはヤコブの手紙2章20節で「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」と厳しく問いかけ、続く21節と22節では、アブラハムには独り子イサクを神に献げるという行いが伴っていたことを示しました。 (1月10日の説教より)