ルカによる福音書3:1-6

 

そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。      (ルカ3:3)

洗礼者ヨハネは、旧約聖書の預言者にはなかった新しい要素を悔い改めの説教の中に盛り込みました。それは「罪の赦し」と「洗礼」ということであります。旧約聖書の預言者は、「悔い改めるならば、あるいは救われるであろう」というメッセージを語りました(アモス5:14-15)。そして、その場合の救いとは、神様の裁きとして外国が攻めてきたときに生き残ることができる、というのが主な内容でした。
ところが、洗礼者ヨハネは、それをさらに深めて確かなものとし、「悔い改めて罪の赦しを受けなさい」というメッセージを語りました。これこそ、キリスト教の中心となる教えです。すなわち、神様に罪赦されて義とされるということこそ、キリスト教の救いの中心であります。後に、キリストが十字架上で死んで復活して天に昇り、天から聖霊を送ってくださるようになると、「悔い改め」ということ自体が神様から与えられる賜物である、ということが明らかになります。それは、使徒言行録の5章31節にありますように、使徒ペトロが「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」と語っているとおりです。
そして、洗礼者ヨハネは罪の赦しの確かなしるしとして「洗礼」を授けました。洗礼と似た儀式については、たとえばユダヤ教の一派であったエッセネ派という派の沐浴の儀式がありました。荒野の中で共同生活をしたエッセネ派は、日常的な沐浴の儀式を通して儀式的な清めと罪の清めを行っていました。しかし、洗礼を罪の赦しのしるしとして一生に一度の重大な礼典としたのは、洗礼者ヨハネでありました。イエス・キリスト御自身も、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになりました。そして、キリストも洗礼をお受けになったということが、キリスト教会が洗礼という礼典を行う根拠となっています。ですから、洗礼者ヨハネが「悔い改めて罪の赦しを受けなさい」と言って洗礼を授けたのは、やがてキリスト教の基本となる活動であったのです。   (1月3日の説教より)